「ぼくはもう一度、雪舟から等伯への道程をたどってみたかった」
そんな1970年に亡くなった日本画家・横山操の最期の言葉を出発点として『山水思想―「負」の想像力』という本は、「雪舟から等伯への道程」を追いながら、中国から渡来した水墨画がいかにして日本の水墨画となったのかを問います。そして、そもそも中国における水墨画において「山水」とは何であり、日本はそれをどう日本の山水に変換したのかと、日本における山水画の変遷を辿ります。
とはいえ、ここでの「日本画」の「画」の部分は何に置き換えて読んでもいいと思います。日本デザインでも、日本製品でも、日本のITでも、日本の技術でも、日本のブランドでも。いや、そう置き換えて読むことができるかどうかがこの本を読む上でのポイントの1つでしょう。
そう。松岡さんがこの本で試みているのは、日本がこれまで海外の思想や表現などの情報をどのような「方法」でローカライズすることに成功し、失敗してきたか、そして、その「方法」とはどんなものだったのか、ということなのです。

山水という方法
松岡さんがそこに見出すのは日本文化独自の「方法」です。表題であるにもかかわらず、NHKブックスという性格からか、『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』では、いまひとつぼんやりと描かれていた「日本という方法」がよりはっきりと描き出されているのが本書です。
中国山水の日本化に成功した日本の「方法」が、いや山水画に限らず、中国から学びながらそこからうまく日本独自のものを生み出し、中国離れを可能にした「方法」が、その後、何故、明治期において西洋を学ぶことに失敗したのか。この本で学ぶべきはその失敗と、失敗を免れるには必要だった「日本という方法」です。
松岡正剛さんはこの本の最後のほうでそのことを内村鑑三を登場させながら、次のように語ります。
内村のいう「違式」とは、異文化間における様式の導入や転位の失敗をいう。第二章での説明を使えば「様」の問題だ。中国禅林の画僧たちは、漢画の日本化にあたっては、格別に「様」の扱いを重視した。中世の水墨画だけではない。聖徳太子も藤和不比等も菅原道真も、「違式」に陥らないためには、細心の注意を払ってきた。(中略)ところが、それが狂いだしたのだ。それが日本の近代というものである。内村はその鍵と鍵穴の関係に敏感に気がついた。松岡正剛『山水思想』
中国を受け入れるため、さらには公家文化から武家文化に移る際にも、「様」の扱いに細心の注意を払ってきた日本が、明治期において西洋を受け入れる際にはその注意を十分に払うことに失敗した。そこでは日本がその時代まで使ってきた「方法」が忘れられたことに要因があるのではなかったかと松岡さんは見ています。
そして、この本では、その「方法」とは何かを、日本における山水(画)の流れに目を向けることで浮かび上がらせています。
もしわれわれが「方法」を見失っているというなら、われわれは「山水という方法」の中にいたのだということを思い出すべきではないかということなのだ。松岡正剛『山水思想』
「日本という方法―おもかげ・うつろいの文化/松岡正剛」というエントリーでは、いまの日本人は「方法」が苦手なのか?ということを考えてみました。もしそうであるのなら<われわれは「山水という方法」の中にいたのだということを思い出すべきではないか>という松岡さんの言葉に従う必要があるのかもしれません。
そのためには、まずこの本を辿って「山水という方法」とは何か?を知る必要があるでしょう。
山水画に対するイコノロジー的探索
さて、この『山水思想―「負」の想像力』は、これまでここでも紹介してきたとおり何冊か読んでいる(頁下部のリスト参照)松岡正剛さんの本のなかでも、この本が一番好きです。まず、なんといっても「山水」「水墨画」という題材がいい。それに松岡さんの姿勢がほかの本とは異なり、「探る」という姿勢が一貫している印象を受けるのもいい。
あとはきっと読んだタイミングも良かったのかもしれません。
この本で松岡さんは文字通り山水画に対するイコノロジー(図像解釈学)を試みているのですが、僕自身、事前に『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』や『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』、『表象の芸術工学』などを読んでいたおかげで、「絵画作品を同時代の文学テクスト、イメージ、そして現実世界の出来事との多様な関係のなかにおいてとらえ、その図像表現を重層決定している要因を拾い上げる」といったイコノロジー的な探求が行われるこの本の取り組みにすんなり入っていけたところがあると思います。
東洋における風景
松岡さんはこの本で、まずは中国から禅とともに入ってきた水墨画を禅僧が余技として受け止めるところからはじまる日本の水墨画の流れを、そこから雪舟にいたって日本の山水画が独立を果たし、さらにそれを長谷川等伯が世界中どこを見渡しても類を見ない異様な風景画に変換する様を追っています。ここまでは最初にも書いたとおり、「ぼくはもう一度、雪舟から等伯への道程をたどってきたかった」という横山操さんの最期の言葉から出発した本書としては当然ともいえる展開です。
しかし、ようやく等伯の『松林図屏風』まで辿りついたと思えば、突如、風景とは何か、景色とは何か、と、世界が風景を、景色をどのように見てきたかを辿りはじめます。「謝赫の「画の六法」(あるいは、経営者は絵が描けないと・・・)」で書いた「経営」の話が出てくるのは、その流れのなかでです。
純粋な風景だけの風景画はアルベルト・デューラーが登場する15世紀の終わりを待たなくてはいけない西洋に対して、中国においてはすでに9世紀に様々な試みがはじまり、10世紀には董源や巨然の時代で確立をみているという西洋と東洋の風景に対する視線の送りかたの違いをみます。東洋が風景を山水と見たのに対し、西洋は風景を幾何学としてみた。生成する自然として、自然を機械論的にみた。そこに違いがあり、それゆえに松岡さんはその違いを明らかにするため、東洋的風景のルーツともいえる中国に飛びます。
眼の習俗
中国の山水に深く影響を与えたタオイズム、北と南の風土の違いによる山水画の異なる発展(北の三遠、南の辺角)、さらには元や明による南宋の知識人の弾圧やインドからの禅の流入によるタオから禅林文化への移行などを紹介しながら、松岡さんは風景と「眼の習俗」の関係に迫っていきます。これまでの水墨画論には風景論や景色論は入ってこなかった。また、私は和歌における景色の選びかたや詠みかたに日本の風景画論がひそんでいて、そこには言語学的風景論ともいうべきが認められるともおもっているのだが、いままで美術史はそういうことを重視してこなかった。加うるに、如拙・雪舟から相阿弥・元信をへて雪村・等伯への道が、中国的風景とはちがった日本の独自の風景観ともいうべき新しいトポスの感覚をつくってきた李湯も、あまり考えられてこなかった。松岡正剛『山水思想』
松岡さんがここで問題にしているのは、景色の「選びかた」であり「詠みかた」です。つまり「方法」です。風景を見る「方法」について、松岡さんは考えています。
そして、<われわれには、家族でピクニックに行って写真を撮りたくなっているときも、石庭や枯山水の庭を見ているときも、むろん盆栽や絵葉書や観光地の案内看板や風呂屋のペンキ絵を見ているときも、そこに「山水」を想定する眼の習俗が動いている」と言っています。「眼の習俗」を発動する「方法」がいまだに日本人には受け継がれている。ただし、もっと後のほうになって松岡さん自身、言及しているように「方法は体験の渦中にいるときには掴めない」ために、僕らは自分たちの「眼の習俗」がどのような方法で可能になっているのかについて意識的ではありません。
松岡さんがこの本で丁寧に読み解こうとしているのは、そんな意識化に隠れた、表面化させるのが困難な「方法」なのです。意識下に隠れているためで非常に曖昧かつ複雑に絡み合っているところがある。それを解きほぐして表面化させようというのですから、これはむずかしい。この本を書く松岡さんがいつにも増して丁寧な探求を進めているように思える1つの要因がそのむずかしさなのかもしれません。
ただ、このむずかしさというのは、人間の感覚や知覚を相手にしはじめた現代の思考の方向性から考えれば、誰もが正面から捉える必要があるむずかしさだと僕は思っています。ペルソナを知りたいとか、ユーザー中心のデザインについて学びたいと口にしている人が、こういう問題に正面からぶつかることを避けようとするのは、まったくどうかしてると思います。もちろん、すでにそういうことに取り組んでいる人がここで書かれていることを無視して、人間中心設計だの口にしてるのもおかしい。
まぁ、ほとんどそれを正面からとらえようという人はいませんし、何かというと「むずかしい」と言って問題を放棄、思考停止する人が多いのが問題ですけど。
湿度・温度と黒砂糖の味
話が逸れました。さて、文庫本にして500ページ近い、この本のすべてをここで紹介するためにはあまりにも紙幅が足りません(紙ではないですけど)。
実際にはこの本で書かれたことを知るためには、あまりに当り前のことですが、この本自体を読んでいただくしかないのですが、ここでは最後に松岡さんが「山水という方法」という言葉で描いた「方法」に関して、僕自身が感じ取ったことを、僕自身の個人的な体験とともに記しておきたいと思います。
松岡さんは、等伯の『松林図屏風』の湿度、あるいは、中国の北宋画と南宋画における湿度の違いなどについてたびたび本書のなかで言及しています。そして、次のようにも書いています。
中国の月はニッケルのように天に貼りついて煌々と照っていて、それをナイフでカリカリと削りたくなるような金属感があるが、日本の月は清少納言から村上華岳までが好んでその風情を表現したように、やはり「朧月」なのだ。とくに中国の山水画と日本の山水画を比較するには、この湿度感の相違が見逃せない。そこには「にじみ」の文化というものが待っていたわけなのだ。松岡正剛『山水思想』
7月の頭に僕が西表島へ旅行に出かけたことはこのブログでも紹介しました。
西表島では熱帯雨林の自然がそのまま残る地を満喫するためカヌーやトレッキングを楽しみました。照りつける強い陽射しのなかを急な山道を歩いたり、カヌーを漕いだりすると喉が渇くだけでなく、疲労で甘いものがほしくなります。
そんなときに役立ったのが黒砂糖でした。西表島のスーパーで買ったのですが、歩き回って疲れた休憩の際に、黒砂糖を1つ食べる。これがなんともおいしいし、疲れがとれる感じがします。あの暑い中だからいいのだろうと思いました。
ところが、それを東京に帰ってきて、おなじように暑い中、歩いたあと食べてもちっともおいしくない。暑いなか歩いてへばった感じはおなじなのに、まったくおいしく感じないのです。
西表島から帰ってきたときに感じましたが、暑さ自体はむしろ東京のほうが暑いくらいなんです。陽射しは西表島のほうが強いですし、きっと湿度も向こうの方が海に取り囲まれていることもあり高いのだと思います。ただ、暑いのはどっちも暑い。それでも、おなじ黒砂糖の味が違って、東京で食べると、ざらっとした甘さがちょっと不快に感じたりもします。

西表で食べる黒砂糖の味と東京で食べる黒砂糖の味は違います。
西表の山水もまた関東の山水とは違う。そして、違いがあるからこそ、僕は西表島に行きたくなるのですし、その西表の山水は僕の胸中にあるのでしょう。
「違式」:異文化間における様式の導入や転位の失敗
きっとこの違いなんですね。見逃せない相違というのは。通常なら僕らはそんな違いを当たり前だと思って見逃してしまいます。ただ、食べ物の場合は、それに敏感なのか、多少はそうした土地の湿度や気温など気候の違いからくる味の違いを見逃さずに調整したりします。海外の食べ物を日本で出す場合、その料理の良さを生かしつつ、日本に合わせようとします。たまに日本向けにしすぎて、ちっともおいしくないものもありますが、日本化がうまくいっているものは非常においしく食べられます。
味覚以外にも、嗅覚が関連するものも、おなじくらい、丁寧なローカライズが行われているような気がします。
ところが視覚的なものになると、まったくそうではありません。いや、視覚的なものはまだマシで、思考的なものはほとんどそうした違いに鈍感で、地域の違いなど無視して、そのままの形で輸入されます。日本語訳しただけでローカライズできたと思っているふしがある。まさに「違式」そのものです。
ローカライズするということにおいて「方法」が必要なことが忘れられているのは、まさに地域間の湿度など気候の違いや文化の違いに鈍感になったせいなのかもしれません。まさに違いを感じとれない身体の鈍感さが、聖徳太子や藤和不比等、菅原道真が「違式」に陥らないために払った細心の注意をもはや払えなくしているのではないかとも考えたくなります。
知識や技術、デザインや文化などが、地域の違いも無視して渡来し、しかも、そのことに違和感を感じることもなく、単に日本語化するだけで日本化をしようとしない杜撰なローカライズばかりが行われています。もちろん、ローカライズの際に気にする「違い」は気候の違いのみとは限りません。松岡さんはこの本で「胸中の山水」というキーワードを提示していますが、この「胸中の~」といったところの違いに目を向けないければ、まともなローカライズは本来できないのではないか? そういう問題意識を感じます。
そういう問題意識が元々あったからこそ、その試みが成功したとはいえないまでも僕が『ペルソナ作って、それからどうするの?』で試みた(ユーザー中心の)デザインの方法の日本化も、そうした危惧があってのことでしたが、どうもあまり他の人びとはそうしたことに関心がないのかもしれません。自分たちの「眼の習俗」がどのような「方法」に依拠しているかということに興味がないのかもしれませんね。
なんかそんな感じだと、日本のデザインとか、産業とかって、この先あやうくないですか?
そんなことを考えながら読んだ一冊でした。
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