日本という方法―おもかげ・うつろいの文化/松岡正剛

日本人は方法が得意じゃない。
そう言ったのは、今日の「ペルソナ/シナリオ法による商品・サービス開発」セミナーでの山崎さんでした。

約5年前での海外セミナーでのこと。出席者にペルソナという手法について訊くと、ほとんど全員が知っていて、半数が何らかの形で使ったことがあると答えたそうです。とうぜん、日本では昨年あたりからようやくペルソナに注目が集まってきたばかりで、まだ実際に使っている人はそれほど多くないはずです。
それなのに、5年前の段階で、ペルソナがどういう手法かという議論ではなく、自分たちでどう取り入れるかという議論を他の人間中心設計の手法と同様に議論していたことに驚いたという話でした。

確かに、そう言われると、いまの日本人は既存の方法をうまく活用するのがうまくないと僕も感じます。

それは人間中心設計の手法に関してだけでなく、これまで僕が仕事で活用させてもらったシックスシグマの手法や、バランストソコアカードの手法、マーケティング関連の手法、どれをとってみても、興味があるとか、話を聞いてみたいという人は数多くいるものの、実際にそれらの手法を自分たちで使ってみようという人はあまり見かけてきませんでした。

方法に興味は示すものの、それを活用するのが苦手なのが、いまの日本人かもしれません。

方法の国

ここで「いまの日本人」とわざわざ断っているのは、ここで紹介する『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』のなかで松岡さんが日本を「方法の国」だと書いているのが頭にあるからです。

松岡さんはこの本で、「主題の国」ではなく「方法の国」である日本が、「外来の自然や文物や生活を受け入れ、それらを通して、どのような方法で独特なイメージやメッセージを掴もうとしたか」という「日本的編集方法」について論じています。

独自のテーマをもつのではなく、テーマそのものは外部から多様なテーマを受け入れつつ、それを情報編集する方法そのものに独自性をもつ国としての日本。しかも、編集によって多義的なものを一義的にしてしまうのではなく、むしろ、多義性を維持する方向で編集はなされる。その編集も、ときには外来のものを外来であることを明示したまま、かつ日本風に変換して使えるようにしたり(漢字、唐物の器、仏教や儒教、スパゲティ・ナポリタンなど)、そうかと思えば外来のコードを利用して新しい日本のモードを作り出したり(仮名、茶の湯や和物の茶器、国学、たらこスパゲティなど)など、編集の結果、生じるものも多義的。

日本的編集方法

二項対立を前提に「正」と「反」を見て、その二項を止揚して一義的な「合」を生み出す西洋的な思考法に対して、日本的な方法とは最初から二項同体(清沢満之)とみて、二項対立の「合」の失敗による二極化を避ける消極主義(極を消す)をとります。二項は二項のまま、極を消すことで多義を許し、かつ、その二項のつながりを認めます。

二項同体、消極主義、ミニマル・ポシブル。まさに「日本という方法」です。私たちの先祖たちは、水を感じたいから枯山水から水を抜いたのです。墨の色を感じたいから、和紙に余白を担ってもらったのです。それはすべてを描き尽くす油絵とは異なります。油絵は白を塗って光や余白をつくるのですが、日本画は塗り残しが光や余白をつくるのです。
松岡正剛『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』

方法そのもののなかに、すでに方法以外のもの=多義としての塗り残しの余白、水が抜けた不足が入り込んでいます。すべてを人為的にコントロールしようとする西洋的な方法とは明らかに異なります。しかも、そうした方法以外のものさえ内部に取り組んだ方法、他力本願の方向性をもつ方法こそが、外来のものを受け入れながら日本の独自性を同時に可能にした日本的編集方法なのでしょう。

多義であること

ここで重要なのは多義というのは、単に良いものばかりだけ集めて多義を許すのではなく、松岡さんが『フラジャイル 弱さからの出発』で書いているような悪や弱さのようなネガティブなものも許す多義であり、最近、紹介した『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』『対称性人類学』でも扱われていたような意識によって抑圧された無意識、デジタルが捨象した部分を取り込んだアナログ、言葉による定義の一義性を免れてイメージに残存する意味のゆらぎなども含むものです。

わかろうとすればするほど逃げていくもの、ただし、頭で、意識として、わかろうとしなければ感じられるものがもつ多義性を扱える方法が日本にはあったのだと、この本を読んで感じました。

それは長次郎の黒楽茶碗の一としての黒ではなく、見方によってうつろう黒であり、一句ごとに趣向がうつろいながら続けられる連歌会における多義の重要です。デジタルという言葉の語源であるデジットが指であり、指というあいだをもつものによって分割され、指折り数え上げられる、あいだを捨象した思考から生まれるものではなく、指と指の間が分かれる前の区別があいまいな状態でのうつろい(個体発生において指は指のあいだの細胞が死ぬことで形成される)に価値を見出す思考が可能にするものだと思うのです。

まさに存在しないもの、見えないもの、うつろいやすく個としての同定がむずかしいものにも「おもかげ」=プロフィールを感じ取る日本的方法です。

「いまの日本人」はなぜ方法に弱くなったのか?

元来、そうした「方法の国」であった日本が、どうしてはじめに書いたように方法が不得意になってしまったのか?

そこを想像するに、1つの理由として、数学的かつ究極的な一義性をもつデジタルな方法であるコンピューティング(計算)の論理を中心とした情報化社会の現在が、元来多義性を許容する心のソフトウェアをもつ日本人とはあまりになじみにくいという点があるのかなと思います。

ほかのものは結構、うまいこと日本化させてきた日本的編集方法ですが、数学を日本化したというのはあまり聞きません。和式数学というものを僕は聞いたことがない。おなじ松岡さんの本『日本数寄』で、江戸時代に『割算書』を著した毛利重能ら和算家が紹介されていたり、システム理論家であった三浦梅園の「条理学」があるくらい。コンピューティングや情報技術の分野でも同様で、日本独自のものを生み出す試みはあまりうまくいっておらず(TRONなどはありますが)、その分野の方法が日本化されないなという印象が僕が『ペルソナ作って、それからどうするの?』を書いた理由の1つだったりもします。

とにかく、ここの部分をどうにかしないとこの情報化社会において、日本が古来からそうであったように「方法の国」であることを取り戻し、方法への苦手意識から脱皮するのはむずかしいのかもしれないと思っています。それには風景をみて幾何学をつくった西洋的な思考法ではなく、おなじ風景をみて山水画を描いた中国に連なる日本独自の数学やシステム思考が必要になるのかな、と。
これは最近ひたすら読み漁っているイメージング・サイエンスやイコノロジーなどの考え方と同時に、それこそ先にも名前をあげた三浦梅園らのシステム理論である条理学から学ぶ必要があるだろうと感じています。ただ、これはかなり厄介な課題なので、そう簡単にどうこうなるものではないということだけはわかります。

ギブソンの理論は日本人に相性がよいのでは?

もうすこし簡単な道をとりあえずは採用するとすると、それは情報を環境と人間の相互作用の産物だと捉えたギブソンのアフォーダンス理論、生態学的心理学の方向性をベースに、人間中心設計の技法を使うことが1つの手だと思っています。人間の側に知を見るのではなく、はたまた、逆に自然を「生成する自然」=ピュシスとしてみる西洋的な機械論的な自然観を採用するのでもなく、相互作用としてうつろう情報のおもかげを相手にする思考は、本来的な日本的編集方法にも合っていると思うのです。それが僕がしきりに人間中心設計やユーザー中心のデザインの考え方を推す理由の1つでもあります。

「日本という方法」がわかりやすいほうがいいなどとは思いません

日本の本来を取り戻すには、そのしょうしょう厄介で、いつでもセミナーなどで説明しようとするとうまい説明に窮してしまう人間中心設計というもののうつろいやすさを利用するのがよいはずだと思っています。

私は「日本という方法」がわかりやすいほうがいいなどとは思いません。めんどうな手続きや微妙なルールがあったほうがずっといいだろうと思っている。いやしくも日本は国家であり海流であり、ブナであり少年少女たちであり、記憶でありニュースであり、制度であって面影です。それが安直に進むわけはなく、どんなことにも迷いが生じるはずなのです。それならどんなことにだって、醒めても胸が騒ぐのは当たり前。むしろ醒めもせず、夢もなく、胸騒ぎもなくなってしまうことのほうが危険です。
松岡正剛『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』

もはや、この言葉に言い尽くされているのですが、めんどうを嫌ったり、安直さを求めたり、迷うことをためらったりしていたら「日本という方法」は手に入らないのだと思います。めんどうななかに、安直さとは正反対で、日本の自然のようにほっといたら勝手に生え広がるような混迷のなかにこそ、日本という方法はあると思います。

それにはやはり一度はどこかで「いまの日本人」には馴染みのある西洋的方法というのを脇に置いてみることが必要でしょう。それに脇においても大丈夫です。脇においてもそれを捨てることなく、別のものが見つかったからとそれを抑圧することもなく、新たに生み出すかもしれない日本的方法とそれを共存させて使いこなせることこそが日本的方法なのですから。



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