社会人と大学生(院生含む)14人ほどに参加していただき、講師はメインが矢野さんで、浅野先生、吉橋先生、そして、僕がサポートをつとめさせてもらいました。
今回はリフレクションの意味もこめて、簡単に内容の紹介と僕がそこで感じたことを書いてみます。
「絵」を見つけるフィールドワーク
まずは10時に関内駅に集合。そこで午前中の関内駅周辺でのフィールドワークの説明をします。今回のフィールドワークの目的は、<横浜の街中にある「絵」を発見することを通じて、フィールドワーク・観察の方法を体験する>ことで、ミッションとして<できるだけ多くの種類(用途だけでなく見た目)、めずらしい「絵」を見つけて、撮影をする>ことでした。午後のカードソートを実施するための制約として、各グループ最低30枚(種類)の「絵」を見つけることが指示されました。
それぞれ社会人、大学生混合の4グループに分かれて、フィールドワークを開始。
僕もやってみましたが、見た目に種類の異なる絵を30枚以上見つけるってのは予想していたよりはむずかしかった。いつでも目にする絵(広告、交通標識)はすぐに見つかるし、何度も出くわしますが、そうじゃないものを探そうとする意外に見つからない。でも、あるところには集中してあって、結局、僕が見つけたものはこんな感じのもの。
やっぱりこの時期のフィールドワークは暑さ対策が重要ですね。1時間半ほど、外を歩き回ってみましたが、汗だくであっという間にペットボトルのお茶1本なくなりましたから。汗をふくもの、水分補給用の飲み物、できれば帽子なども必要だというのがわかったのは今後のワークショップを考える上では収穫ですね。
「絵」を構造を見つけるフォトカードソート
午後は14時に新横浜にある横浜デジタルアーツに再集合してフォトカードソートのワークショップ。午後の目的は<カードソートという方法の体験を通じて情報分類・ラベリングの重要性を学ぶ>こと。これは「千葉工業大学で「情報の構造化とHCDプロセス」という話をしてきました」で紹介したカードソートで使う情報を、通常のテキスト情報ではなく、写真というイメージ情報に変えたもの(基本的なカードソート法のやりかたはそちらを参照)。僕も写真でのカードソートははじめてだったので、どうなるのか楽しみでした。まずは各グループで撮影してきた写真からカードソートで使う「絵」30枚を厳選。その際に選択の基準として、
- 似ているものは排除
- ありきたりなものは除外
- それでも、絞り込めなかったらおもしろいものを
を与えました。これ、実は「絵」の分類をなるべきむずかしくするための基準でした。似てるものをなくすということは類似での分類を行いにくくしますし、ありきたりなものの除外は親しまれたカテゴリーに属するものを自然と排除する方向に進みますので。ここでは自分たちで自分たちが行う分類をむずかしくさせてるわけです。
「絵」30枚を選んだら、プリンターで出力して1枚ずつばらばらになるよう切ります。
そして、用意ができたら、まずは自分たちが撮影した写真を分類して、それぞれの分類の束にラベルをつけます。30枚の「絵」に関係性を見つけて、それを元に組織化・構造化する作業です。
各グループが分類とラベリングができたら、それはオリジナルの分類として残しておきます。
次に、情報のラベルだけを残して、もう1組作っておいた「絵」の束を使って、別のグループの代表者に分けてもらいます。自分たちの情報分類がちゃんと他人にも伝わるかの検証です。
結果に対する印象としては、やはりテキスト情報でのカードソートよりはむずかしかったようで、正解率が低くなっていました。
考えられる原因の1つが、そもそもの情報分類の際に、複数のロジックが混ざってしまうことがあります。
多くのグループが「絵のもつ機能(警告だとか企業ロゴとか)」「絵に描かれた内容(動物だとかキャラクター)」といった異なる分類ロジックが入り混じった形で分類を行っていました。複数のロジックが混ざっていると、選ぶ際には混乱はしやすくなりますので、正答率を下げた原因なんだろうなと思います。
2回の検証が終わったら、グループごとにリフレクション。
通常のテキスト情報のカードソートと違って、フォトカードソートだとできあがったものも絵になりますね。
絵の多義性をいかに捉えて、どう分類するか
ところで、今回のフォトカードソート・ワークショップの題材として「絵」を分類するというテーマ設定を考えのは僕でした。それは最近、僕がアビ・ヴァールブルクやバーバラ・M・スタフォード、高山宏さんに代表されるイメージング・サイエンスに興味を持っているからにほかなりません。言葉とは異なる、絵の多義性をどう感じて、それをどう組織化・構造化して分類を行うのだろうというところに興味があったわけです。
先の複数のロジックが入り混じってしまうというところにも、絵の多義性の影響が出ていたのではないかと思います。参加してくださった方のリフレクション・シートにも、
カードソートをして、そのグループにタイトルをつけるとき、そのタイトルのレベルに違いがあることを知りました。
例えば、ベイスターズの絵だと、「絵そのものに対するカテゴリ」なら「キャラクター」、「その絵の用途」ならある意味「ロゴマーク」と分類が変わることを知りました。
基本的に「用途・機能」と「内容」での分類がどの絵でも可能です。さらに「かわいい」「かっこいい」などの分類も可能ですし、あとで紹介する僕の分類例のように「色」での分類も可能です。
それだけでなく「絵」は必ずしも誰でもおなじように見えない可能性もあります。下手くそな絵や想像上のものを描いた絵などは犬なのか猫なのかわからないものもあるでしょう。絵は言葉よりもはるかにあいまいであり、多義性をもちます。「アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮/田中純」で書いたとおり、
言葉による意識的かつ論理性をもった思考は、基本的に分類的/分析的に俎上に並べた事物の差異に着目して、事物の「違い」により「分ける」ことで「分かろう」とする。それに対して『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』などの著書を通じてバーバラ・M・スタフォードが提唱している「絵そのもので考える」思考法は並んだ事物の類似に着目して、イメージ感の「同じ」により分野を超えた「つながり」を見てとることで半意識的に分かろうとする方向性をもちます。
というのが、絵の多義性、そして、多義であるがゆえに人間の思考に対して与える影響の違いをみることができます。
多義性/一義性、あるいは絵の分類/言葉の分類/数字の分類
もちろん、言葉そのものでも多義であり、分類がむずかしいものがあることは、カードソートや実際のデザインにおいて情報の構造化を数限りなくやっている身としては十分に理解しています。「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」で書いたように、この王立協会がシェークスピア演劇を排斥した理由の1つに、そこで用いられる英語が基本的に書かれた台本ではなく、舞台で声を通じて発話される台詞であり、それゆえに非常に両義的・多義的な意味を含んでいたからです。
この意味の両義性・多義性を王立協会は嫌った。なにしろ自然科学者の集団ですから、言葉にもあいまいなものを認めず、ひとつの言葉はひとつの意味をあらわせと「シンプル・イズ・ベスト」を目指します。そして、普遍言語といわれる言語のラディカルな改革運動をはじめ、実質上の初代総裁であった数学者のジョン・ウィルキンズによって0と1とバイナリー(二進法)によって何でもあらわせるというアイデアが提出されます。ちょうと海を挟んだ大陸側でライプニッツが同じことを考えていた時代です。
言葉は近代においてあいまいさをなくす方向に向かいます。定義や標準化が尊ばれるような方向性に進む。
その過程で、「表象の芸術工学/高山宏」で紹介したように、1728年発行の百科事典『サイクロペディア』ではアルファベット順の索引が導入されると同時に、絵が言葉を補足する説明用の機能として、言葉より下位に従属するものとなっていきます。
今回、参加してくださった皆さんが「絵」を分けるのに「用途・機能」と「内容」で分類したことに僕は非常に「近代以降」を感じました。
言葉以上に、あいまいな多義性を排除するものとして数字があります。英国王立協会やライプニッツが言葉のあいまいさの排除のため、二進法に向かったのも当然です。ようはデジタルにすることであいまいさを排除した。それが現在のコンピューティングにつながっていることはいうまでもありません。
例えば、{犬、猫、さんま、うなぎ、するめ、刺身}という集合を分類する場合、{哺乳類,魚類,食べ物}という分類が考えられますが、ここで{するめ}を、魚類としてのするめいかと捉えるか、食べ物としてのするめとして捉えるかという二義性があります。
これが数字である{1,3,4,8,13,17,24}という集合であれば、どう分類するか(1ケタか2ケタかという分類もあれば、素数とそれ以外という分類もあるし、4の倍数とそれ以外でも分けられます)に困ることはあっても、分類方法さえ明示されれば言葉のような多義性で困ることはありません。
言葉を数字化し、絵を言語化する方向に進んだ近代以降において、「絵」という情報の分類は言語情報の分類と同じようになされてしまうのでしょうか?
現在の情報デザインはバイナリー化されてあいまいさを捨象したデジタルなコンピューティングのロジックの上で表現がなされています。テーブルの上のものを分類することで、百科事典化を試みた18世紀以降それはタクソノミーの主流となっています。
しかし、分けることで分かることで、分かったもの(一義)以外のディテール(多義)が捨象されているわけです。それがデジタル化するということの本質であり、計算できることの本質です。
ライプニッツがデジタルの思考を考え出していなければ、現在の論理計算を行うコンピューティングそのものが成立していません。しかし、それはライプニッツの一面であり、もう一面の魔術的な面は現在すっかり忘れられています。それが今回の絵という視覚的イメージを分類する場合の情報デザインにも大きく関わってくる問題であり、同時に人間と情報の関係を考える際の社会的・科学的意味での問題だと僕は思っています。
絵の言語的意味を捨象してみる
先にも書いたとおり、僕自身は自分が撮ってきた写真の分類を行うロジックとして、絵の「色」による分類を行いました。その「絵」がどんな機能をもつか、何が描かれているかは捨象して、純粋に見た目の「色」で分けたのです。もちろん、僕自身がその「絵」をどこで見つけたか、どう感じたかも、分類を行う際には捨象しています。もともと「絵」が置かれたコンテキストを捨てて、「絵」が表象するイメージのみで分類を行ってみようというのが僕の意図でした。
実は事前に今回のワークショップのインスペクションを矢野さんと行っているときに、僕はみんな「色」で分けてしまい、カードソートでの2回目の検証が成り立たないのではないかと危惧をしたんです。「色」の次に多いのが絵に描かれた「内容」だろうと予測したのです。でも、その僕の予想は見事に裏切られました。
そこで僕自身は急遽「色」による分類を自分の「絵」群に対して行いました。「形態」の類似による分類という選択も考え、それは僕自身にとっては魅力的なものでしたが、今回はわかりやすさを重視して「色」による分類を選びました。
「色」で分類した理由はそれだけでなく、それ以外の分類ではうまく分類しきれなかったからです。「国・地域別(日本、中国、ハワイなど)」や「描画法(版画、落書き、写実など)」による分類もしようと試みましたが、どちらもカテゴリーにあてはまらないものが出てしまい断念しました。
結局、残ったのは他のグループがどこも採用しなかった絵の意味(「用途・機能」と「内容」はどちらも絵の意味です)の分類を放棄し、純粋に見た目である「色」での分類を選択することにしたのです。
どうすれば多義性をもった絵の分類が他人に伝わるようになるか?
結果はこれです。3つほど「色」でもどの分類にあてはめていいかわからないものがありましたが、それらは「GREEN?」というラベルをつけたカテゴリーを用意しました。それら3枚はどれに分類するかあいまいだけど、あえていうと緑が使われている絵だったからです。
早く終わった1つのグループで検証すると、正答率100%でした(迷ったのは1つだけありました)。他のグループが「用途・機能」と「内容」の複合ロジックで分類したのに対して、「色」という単一のロジックで分類したこと、絵のもつ多義性のうち、意味の1つである「色」に絞り込んだことで、僕の分類と他の人にやってもらった分類の差が出にくくなったのではないかと思います。
どうすれば情報の分類が他人にも理解できるようになるかを考える際には、そういうことが大事だと思います。特に今後、絵・イメージという多義性のある情報をいかに扱うかという情報学・情報デザインを考えるうえでは、「用途・機能」や「内容」といった頭的な意味ではなく、「色」や「印象」のような身体的意味をいかに分類学に適用していくかを考えることは非常に大事なことです。
骨格の段階でどれだけ美しさをもっているか?
もう1つ、自分で分類してみて感じたことは、「色」という見た目で分類したこともあって、僕の分類した結果はほかのグループよりも見た目がきれいになりました。「見た目」そのものでの分類なので、列ごとに色目が統一されているために整理された見た目になったのです。これって意図したものではなかったんですけど、重要なことですね。
情報の構造化の段階ですでに美しさをデザインする。それは構造・骨格の上に、きれいなヴィジュアル・デザインをのせて表面的な美しさを追求するのとはまた違うものです。
これは今回のように扱う情報が視覚情報であるイメージであるときは特にそうですが、視覚情報でないテキスト情報の構造化においてもおなじだと思います。構造段階でよくデザインされたものは、その骨格のみにおいても美しさをもつものだと思います。ビジュアル・デザインをやっている方もこのあたりは一度よく考えてみた方がいい問題でしょう。
というわけで、僕にとってもかなり有意義なワークショップでした。
参加者の皆さん、講師の皆さん、暑い中、お疲れ様でした。
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