科学の思考も、神話の思考も、その思考の道具に使うのは「二項操作」「二項論理」であることが、まず最初に示されます。ただ、おなじ二項操作/論理という道具を用いて、一方の科学の思考が二項の「違い」に着目するのに対して、後者の神話の思考は二項の「同じ」に着目する。中沢さんは、前者を「非対称性の論理」と呼び、後者を「対称性の論理」と呼んでいます。
それなしにはバランスのとれた健全な発達をとげることのできない
1つ前のエントリー「アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮/田中純」では、言語や数字を中心とした近代の論理が抑圧する多様性・多義性を、イメージを媒介に拾い上げようとしたアビ・ヴァールブルクのイコノロジー研究を紹介しました。そのヴァールブルクの研究は、彼が遺したワールブルク研究所を経て、スタフォードらのイメージング・サイエンスにつながっていきます。差異に着目する思考としての科学に対して、イメージを媒介に魔術的な力を取り込もうとするこれらの取り組みは、中沢さんのいう神話的思考の「非対称性の論理」と非常に関連性が強い。また、それはカリグラファーであり、仏教にマンダラというイメージを持ち込んだ空海にも通じるように思います。中沢さんは、非対称性の論理も、対称性の論理もともに人間の心が生み出す力であると言います。そのうえで非対象性の思考によってできたものばかりがあふれる現在の社会において、対称性の思考が抑圧されている状態に危機感を感じ、「私たち現生人類の心の構造が、それなしにはバランスのとれた健全な発達をとげることのできないように、出来上がっている」対称性の思考を取り戻す必要性を強く訴えているのが本書です。
対称性の論理
僕自身は、スタフォードやヴァールブルクに関する本、それから高山宏さんの本を読んで持ちはじめた問題意識があったからこそ、この『対称性人類学』というタイトルの本をみてピンときました。これはスタフォードのいうヴィジュアル・アナロジーや、ヴァールブルクのイコノロジー研究、さらには、松岡正剛さんが扱った空海とつながる話だろうな、と。それまで、なんとなく読まずにいた中沢さんの本を読もうと思ったのは、そんな勘が働いたからです。実際、その勘はあたっていました。では、対称性の論理とはいったい何なのでしょう?
中沢さん自身は対称性の論理について、次のように述べています。
科学的思考が使っているのとまったく同じ「二項操作」を用いながら、神話的思考はそれとはまったく違う「対称性の論理」による、独自の思想を生み出そうとしてきました。そして、この「対称性の論理」の働くところ、交換は贈与につくりかえられ、言語には詩が生みだされ、人間は宇宙の一部分にすぎないことを教える倫理の思考が生命を取り戻すようになります。中沢新一『対称性人類学』
神話においては、山羊や熊は、人間と非対象の関係において異なる存在として語られるのではなく、山羊と人間、熊と人間は対称性をもった同じものとして語られます。山羊や熊は人間の食料として狩られますが、それは単に犠牲になるというよりも、むしろ、次の生に向かって自らを差し出す行為として描かれます。この神話的思考においては、死もまた生と対称性の関係にあるからです。
贈与論の論理
こうした「対称性の思考」を復活させることには「大きな意義がある」と中沢さんは言います。非対象性の思考の最たるものの1つが、貨幣を媒介にした交換システムである資本主義経済ですが、この資本主義経済のもたらす様々な問題も、対称性の思考による贈与を導入することで解決できるはずだと中沢さんは考えています。
生産を中心におき、それゆえに合理性や功利性ばかりを追求する従来の経済学に対して、ジョルジュ・バタイユの消費を中心においた快楽ベースの普遍経済学を参照しつつ、それを「厳密な論理や数学で表現できる、新しい科学」としてつくりだす試みを行っています。
贈与というシステムは、すでに詳しく観察してきたように、対称性の論理で作動をおこなう無意識と直接のつながりをもっています。この対称性無意識は原初的抑圧の手前に広がる、無限の拡がりをもつ「心」の大陸でおこなわれている活動なのです。(中略)「心」のその領域は、原初的抑圧以前の、表象化不可能な、高次元の活動をおこなっているわけですから、自然数や実数とは根本的に異なる構造をもっている、何か新しいタイプの「数」でなければ、その動きをアナロジカルにつかむことさえできないだろうことが、予想されます。中沢新一『対称性人類学』
それゆえ、中沢さんは自然数によって抑圧された多様性を取り戻すために、ライプニッツの「無限小」という概念を持ち込んでいます(またしてもライプニッツです!)。無限小という想像上の数を取り込むことで、実数を超えた超実数による贈与論の論理を描いています。
一であること、多であること
中沢さんは対称性の思考を完成形に近づけようとした試みとしての仏教に着目しています。仏教をのぞく多くの世界宗教が一神教であるのに対して、仏教は多神教的な多様性・多義性をそのまま残し、それによって神話的世界の対称性思考を抑圧することなく、それをさらに推し進めるべく研究されました。そうした宗教ではなく、学問・研究としての仏教に中沢さんは着目していますが、それは僕が最近問題にしているテーマともとてもリンクします。昨日、紹介したヴァールブルクは、楕円軌道を発見したケプラーに強く惹かれていますが、1つの中心をもつ正円的思考よりも、中心を複数もつ楕円的思考に僕も昔から惹かれるところがある。それゆえに二進法を発明しながら魔術的な研究も推し進めたライプニッツや、台詞に一義的な言葉を選ばず、常に複数の意味が揺れ動く多義性をもった詩的な言葉を選んだシェイクスピアの思考、過剰な描写で生物を異常な姿で描いた伊藤若冲にも惹かれます。そうしたディテールの余剰を捨象せずに、常に意味をあいまいなまま抱え込む姿勢に僕は惹かれます。
ここまで考えてようやく以前から書くといっていて書かずにいた松岡正剛さんの『日本という方法』の書評が書ける気がします。
「一であること」よりも「多であること」を方法としてもつ日本を考えるためには、ここまで遠回りする必要があるのではないかと思うのです。
何が多を抑圧して一を成すように仕向け、なぜ、かつての日本はその抑圧する一から自由でありえたのか?
それを単にコストの問題だけで語るのでは明らかに不足しています。それこそ、イメージのもつ多様性や、自然環境との対称性から読み解く必要があるのではないでしょうか。
関連エントリー
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