2008年07月21日

アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮/田中純

言葉による意識的かつ論理性をもった思考は、基本的に分類的/分析的に俎上に並べた事物の差異に着目して、事物の「違い」により「分ける」ことで「分かろう」とする。それに対して『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』などの著書を通じてバーバラ・M・スタフォードが提唱している「絵そのもので考える」思考法は並んだ事物の類似に着目して、イメージ感の「同じ」により分野を超えた「つながり」を見てとることで半意識的に分かろうとする方向性をもちます。
前者が「分ける」ことで領域を分断して細分化するのに対し、後者は「つなげる」ことで領域を横断して異なる分野での交流を可能にします。また、前者が意識的で、あいまいな意味づけを嫌ってそれを排除し、可能な限り一義的な意味と表象の連結を目指すのに対し、後者は半意識的な思考であり、表象の意味するあいまいさを受け入れることで、イメージのもつ両義的・多義的な意味をそのまま読み取ることを目指す点でも異なります。

いまの情報デザインに対する危惧

近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」でも書いたように、1660年代に英国王立協会が設立され、普遍言語といわれる言語のラディカルな改革運動をはじめ、実質上の初代総裁であった数学者のジョン・ウィルキンズによって0と1とバイナリー(二進法)によって何でもあらわせるというアイデアが提出され、ちょうと海を挟んだ大陸側でライプニッツが同じことを同時に考えていた頃から、現在のコンピュータ技術にいたるまで情報のデザインにおいては、あいまいさを多く含んだイメージより、あいまいさを限りなく消し去った言語表現による思考を上位に位置づける情報化社会が線形に連続してきています。

ただ、そうした社会における情報化、テキスト中心の情報デザインの方向性も徐々にその限界と問題点を露呈しはじめているのが現代なのではないかと感じます。僕がつねづね不満を感じているのは、Webなど、情報のデザインに関わっている人が非常に多いにも関わらず、このあたりに何の疑問も感じることなく、情報を扱っていることが多いこと、また、イメージの持つ多様性・多義性を含めた情報論というものを扱う人が日本にはほとんど存在しないことです。

そんなこともあり、ここ最近紹介してきた高山宏さんやスタフォードの本、そして、今日紹介する『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』などを読んでいると、現代の情報化社会に対するオルタナティブとして、テキストではなくイメージを重視した情報デザインの方法論について、そろそろ本腰をいれて真面目に考える時期なのではないかと思うのです。

言葉で考えるのではなく、絵そのもので思考する

スタフォードは、『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』のなかで「ヴィジュアル・イメージと観念の間の失われた環を、視覚することでのみ思考するような直観的方法をもう一度蘇らせたい」と書いていますが、そうしたスタフォードの思考の源流のひとつにあるのが、本書の主人公であるアビ・ヴァールブルクに起源をもつ図像解釈学(イコノロジー)だといえます。

ヴァールブルクは図像アトラスを「純粋非理性(無分別)批判のための図像アトラス」と称した。フロイトが言うように、「視覚像において思考することはきわめて不完全にのみ意識化すること」であり、それはまた「言葉において思考することよりも無意識的過程により近い」とするならば、われわれはヴァールブルクの言う「非理性」を「無意識」と読み換えることが可能だろう。そこは言語への回収からこぼれ落ちてとどまりつづけるもの、明確に「分別」されず、連想へと開かれた「無分別」な表象たちの領域にほかならない。
田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』

「図像アトラス(ムネモシュネー)」とは、晩年のヴァールブルクが生涯を通じた彼独特の図像解釈の方法を洗練させてつくった、複数のイメージをパネルに並べて配置することで、「歴史を空間化して探索する方法」であり、社会に対してだけでなく、何より彼自身に対しても「属する時代を地域もジャンルも異なる図像を相互に比較しつつ関係づける可能性」を見出させた方法論です。実際の図像アトラスをみれば、情報デザインにおける情報の構造化を考える方法をもう一度見直さなくてはいけないという気がしてきます。



「日本という方法」を考える場合でも

視覚そのもので思考するというとき、先の引用にもあるように言語の一義性とは異なる、イメージの両義性(多義性)により、フロイトがいうところの抑圧された無意識が思考に関与してくるようになります。分別して分かるのではなく、無分別な状態を受け入れたまま、どうしようもなくイメージが表象する世界とそのままつながってしまうような分かり方。思考というより、思考とは別のところで考える可能性を人間に開いてくれるのだといったほうがよいでしょうか。

一方の「論理」が「概念的に分離する記号によって−人間と事物のあいだに−思考空間を作り出す」のに対して、「魔術」は「人間と事物を迷信的に−想像のうえで、あるいは実際に−引き寄せ結合することによってまさにこの思考空間をふたたび破壊する」
田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』

フロイトと同時代を生きたヴァールブルクが図像の研究を通じて、フロイトが無意識を発見したのと同じものを見ていたということは大変興味深いです。

僕自身が『ペルソナ作って、それからどうするの?』でも考えており、松岡正剛さんが『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』などで紹介している日本の「あわせ」や「見立て」などの方法も、この図像的連想による魔術的方法と、論理的思考の違いに敏感でなければ、その多義性・多様性をいくら言ってみたところで『日本という方法』を読めたことにはならないでしょう。

図像解釈学(イコノロジー)

さて、ヴァールブルクが最初に用い、後にヴァールブルクとも親交のあった美術史家のエルヴィン・パノフスキーが提唱した概念である図像解釈学は、絵画に表された事物の意味を探る図像学(イコノグラフィー)よりも深く、「絵画作品を同時代の文学テクスト、イメージ、そして現実世界の出来事との多様な関係のなかにおいてとらえ、その図像表現を重層決定している要因を拾い上げる」ことを追及する学問です。

言葉で考えるのではなく、絵(イメージ)そのものを通じて思考された半意識的な絵画が描かれた時代の思考のあり様を問うこのイコノロジー的思考法は、『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』を紹介したバーバラ・M・スタフォードや、『表象の芸術工学』で高山宏さんが「今、デザインを勉強しようとする人間でイエイツの『記憶術』とか『世界劇場』とか名さえ知らないなんてこと、ぼくが絶対に許しません」と述べ、僕もいま『薔薇十字の覚醒』という本を読んでいるフランセス・イエイツなどワールブルク(ヴァールブルク)研究所出身・在籍の文化史家にも受け継がれている考え方です。

図像はディシプリンを超えて

イコノロジー的思考の特徴は何より、僕がたびたび紹介してきたように、領域横断、分野の横断を可能にすることです。

この講演で彼ははじめて「イコノロジー分析」という言葉を使った。その分析は、学問の「国境警備隊に臆せず、古代・中世・近世を互いに関連しあう時代としてとらえ、人間による表現活動の資料として、純粋芸術と実用芸術の両者に同じ価値を認めようとする。謎めいた図像の解読はその分析のための手段であって、それ自体が目的ではない。
田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』

言語による思考と異なり、イメージによる連想は領域を超えた結びつきを容易に類推させます。言葉によって囲われたディシプリンの枠など無視して図像は別の図像とのつながりを示唆します。

「百聞は一見に如かず」というように元々人間には図像による思考の能力が備わっているし、それは日常的に数限りなく用いられる能力であるはずです。しかし、近代は、そうした図像による魔術的方法よりも、言語や数字を中心とした論理的思考を上位と見てしまった

象徴は起源語、2つのまったく対立する意味を同時に有している。この両極性を言語によって表わそうとすれば対称的に相反する意味の対立として語るしかないが、具象的図像において象徴は、両極がたえまなく反転しつつ共存する極性連関(両極性)を一挙に開示する。象徴は起源語のように単に一対の反対意味を表すばかりではなく、その両極をどう呼ぶにせよ、任意の意味の対による両極性それ自体を表象する。
田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』

こうした図像による無意識的方法を抑圧して、ディテールを捨象した何のつながりも生み出さない言語と数字によるコミュニケーションだけで世界を成り立たせようとしているのだから、そこに矛盾や齟齬が生じるのは当たり前のことではないかということを、それこそライプニッツの二進法まで戻って、問い直した方がよいのではないかというのが僕の最近の考えです。ライプニッツは二進法を生み出すと同時に、魔術的な方法に通じていたのですから。なぜ、その片方だけを扱うなどという愚かな選択をしてしまったのか? そのことをもっときちんと問う必要があるでしょう。

ヴァールブルクと情報デザイン

先に情報デザインについての危惧を述べましたが、ヴァールブルクは自身によって集めた多くの蔵書を収容するワールブルク研究所で、アルファベットや数字を用いて配列された蔵書目録を利用した「散漫な概観」に否定的だったそうです。それによって、利用者が本棚に直接相対することがなくなるからです。

彼は「良き隣人の法則」についてしばしば語ったという。すでに知っている本ではなく、それに隣り合った未知の書物こそが必要な生きた情報を含んでいるということがままある。ヴァールブルクにとって書物は研究のための単なる手段ではなく、集められ分類されて「良き隣人」の連鎖をなすことにより、人間精神の本質とその歴史を表現する媒体にほかならなかった。
田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』

すでに別エントリーで書いていますが、「千葉工業大学で「情報の構造化とHCDプロセス」という話をした」際にも、飲食店での紙のメニューの一覧性と、タッチパネル式などの注文用の情報端末におけるメニュー探索の違いについて話をしましたが、飲食店で情報探索を行う際にも、1.バイキングなどで実物が並んだなかから選ぶ、2.ページをめくることで一覧できる紙のメニューから選ぶ(写真がついている場合もある)、3.情報端末の階層化されたメニュー構成のなかから選ぶという行為には、おなじ食べたいものを選ぶという行為でもまったく異なるということを情報デザインに関わる人はもっと敏感であっていいと思うのです。
人間中心設計的発想からみても、どうして食べたいものを選ぶという人間的行為が、情報端末の勝手な制約によってつまらない形に制約されなくてはならないのか? むしろ、合わせるべきは人間の側ではなく、情報端末のデザインの側であるのが当たり前だという発想にならないのはどうしてなのか。そんなごく当然といえるものが問われないまま放置されている状況というのは異常じゃないかと思うのです。

Web系の人を中心に、入れ物のデザインより、コンテンツが大事とかいう言葉を聞きますけど、実際にそれが大事にされているのを僕は見たことがありません。
結局、Webであろうとプロダクトであろうと入れ物ばかりを大事にしている印象があります。それは一時期、無暗やたらとつくられ利用されなかった地方自治体の複合施設とおんなじ感覚でつくられているのではないでしょうか?
ヴァールブルクは蔵書を収容するワールブルク研究所の建築案を考える際も、まずコンテンツ(蔵書)ありきで建築のデザインを発想していますが、それといまのデザインの発想はまったく逆だという印象をもつのです。

名なき科学

ヴァールブルクは自身の方法を「文化科学」に属するものとして捉えていました。

問題なのは美術史学をはじめとするディシプリン内部の方法論ではなく、ジャンルの境界を監視する「国境警備隊」に臆せず、越境を大胆に推し進めたヴァールブルクが端的に「文化科学」と呼んだもの、あるいは適切な命名をいまだ待っている「名なき科学」だからだ。ここで描かれたものはその生成の光景にとどまるが、それはしかし、生成過程における不安と葛藤こそがこの科学にとっては本質的だからである。
田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』

この「名なき科学」は、いまスタフォードらのイメージング・サイエインスとして受け継がれています。おなじような研究をしている人に、すでに亡くなったフランセス・イエイツもいますし、マリオ・プラーツなどもいます。ただ、まだまだこの方面での研究家が世界的に少ないようです。ですので、この本もそうだし、スタフォードの本、イエイツやプラーツの本も、すべて高額です。買い手が少ないからこの価格はしょうがないのでしょうね。イメージングではありませんが、中沢新一さんの対象性人類学なんかもこれに通じるところがあるので、そちらを勉強してみるのも手ですね。

とにかう、絶対、これからこの方面の勉強が非常に大事になってくるはずですし、ここを超えていかないと次が生まれてこないだろうという予感があります。この本もスタフォードや高山宏さんの著作同様、情報のデザインに関わる方は読んでおいたほうがいい一冊だと思いますよ。



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posted by HIROKI tanahashi at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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