端的にいうと、「デザインする」という感覚が身についていない方は、
- 部分視:自分が関わっている仕事の全体像をイメージすることができない・しようとしない
- 閉じたムラ:異なる外部を受け入れる・外部に入り込むための積極的なコミュニケーションを行わない
- ヴィジョン・レス:将来をイメージする想像力に欠けるため、今やるべきことも明確に認識できない
といった傾向があるのかな、と感じています。
で、そういう傾向をもった人たちばかりが集まった組織がどうなるのかというと、
- しくみがなく、自転車操業となる
- 仕事に占める属人的な割合が多くなる
- 上記2点が要因となり、打つ手が空回りするので常に必要以上に忙しく、かつ、優秀な人材をほど、組織に留まらなくなる
という具合になるのかと思うんですね。
こういう組織だと働く人にはとにかくストレスばかりがたまるはずです。まぁ、それさえ感じない鈍感な人も多いのでしょうけど。
「デザインする」という感覚?
ただ、これがはじめにも書いたように、いまのところ、僕自身の感覚的なものでしかなく、じゃあ、その「デザインする」という感覚って何?といわれると、まだ端的に説明することができないのです。『ペルソナ作って、それからどうするの?』でも、最初に「デザインとは何か?」について、その定義を試みていますが、本のなかで対象にした「デザイン」においては十分であっても、いま、ここで問題にしている「デザインする」という感覚を考える意味ではあそこでの考察も不十分です。
うまく抽象化することはできないので、どういうところで「デザインする」という感覚の欠如や不足を感じるかを書いておくと、
- デザインコンセプトがあいまいだったり、とってつけたようなものだったりするので、できたデザインのクオリティが非常に低い
- 何らかの施策を企画する際にも対象となるものだけを単独で考えることができず、その企画自体を成功させるためには事前に何が成立していないといけないか、成功した場合に次にどんな状況が生まれ、それに対応するには何が必要かという前後の思考ができない
- 現在関わっている仕事の状況が捉えてきれていないので、自分が何をすべきかわからずに、常に他の人からの仕事の指示を待つ状態になってしまう
というようなシーンで、何がうまくいかない原因なのかと考えていくと、それが「デザインする」という感覚の欠如や不足なのかなと思うわけです。
自分を含めたモノゴトが相互に絡み合いながら動いていく環境をその内部にありながら鳥瞰的に眺めて、その動きに介入するための方法を見出すことができる感覚というか、それが必要だと感じることができる感覚。それが「デザインする」という感覚なのかなと思ったりもします。
ここでの「環境」は『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』で深澤直人さんが次のように言っていたものとおなじものです。
自分は、昔は自分の身体の外側、自分をさておいた何かを「環境」と定義していましたが、のちに自分も他人もすべて入った入れ子状態のものを「環境」と定義し直しました。
こういう風に「環境」を捉えられるかどうかも、「デザインする」という感覚があるかないかを考える際の1つの要素だと思っているのですが、これだけじゃないはずなんですよね。
そこのところを明確にしていくこと。それも今の僕のテーマかな。
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