ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識/バーバラ・M・スタフォード

愛っていう、この強いリンクっていったい何なんでしょうね。



バーバラ・M・スタフォードは『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』のなかで、こんなことを書いてます(amazonに書影がないのに写真を載せておきました)。

自ら持たぬものと結合したいという人間の欲望がうむアナロジー(analogy)は、とめどない揺動を特徴とする情熱的なプロセスでもある。身体にしろ、感情にしろ、精神的なものであれ、知的なものであれ、何かが欠けているという知覚があって、その空隙を埋める近似の類比物への探索が始められる。
バーバラ・M・スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』

本当にこれ、そうですね。欠けているという知覚があって、そこに愛を見出すということがある。「つながりたい」「つなぎたい」というこの欲望。なんで人間はこんな気持ちをもつんでしょう。

この愛というリンクについて、僕はもっと知りたいと思う。

バラバラのものとをつなげるアナロジー

姉妹編ともいえる前作『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』の最後で、本書の著者、バーバラ・M・スタフォードは<歴史古いアナロジーを目下台頭中の意識の研究(study of consciousness)と繋げて再考することで、「他者」を知るとは、遠くの人々、遠くの時代、そして我々自身の奥処なる自我を知るということはどういうことなのかという永遠のテーマが、劇的なまでに浮き彫りになってくるはずなのである>と書いていました。

そのテーマをまさに丸ごと一冊やってのけたといえるのが、本書『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』です。

  • ポストモダン、類比の消滅
  • 協和のフィグーラ
  • 愛、この魔の引力
  • 組み換え―計算する「新しい精神」を、結合する「古い精神」に繋ぐ

の4つの章からなる本書で著者は、イメージングあるいはそれを生み出すイマジストたちを、意識とは何かを問う哲学、神経生物学、認知科学の論評の只中に放り込み、違いばかりをあげつらえるバラバラの世界に「同じ」を「見る」方法としてのアナロジーの復権を問うています

「ヴィジュアル・イメージと観念の間の失われた環を、視覚することでのみ思考するような直観的方法をもう一度蘇らせたい」といい、「アナロジー化の良いところは、遠くの人々、他の時代、あるいは、現代のさまざまなコンテクストさえ、我々の世界の一部にしてくれる点である」と書く著者は、前著同様、いや、それ以上に様々なヴィジュアル・イメージに目を向け、そして、読者の目も向けさせながら、バラバラの世界をつなぎとめる新しいコンピューティングの手段を模索しています。



このヴィジュアル・サイエンスへの試みを前にすると、人間が心に抱く愛という感情のつながりを求めてやまないこの衝動の正体を考えることこそ、その試みに一歩近付ける道なんだろうと思うのです。

バラバラの情報をつなぐ別の方法

実は最近になって『ペルソナ作って、それからどうするの?』で書き残したことあるなと感じるんです。それはWebデザインといっても、個別のWebサイトのデザインとは別にWebそのもののデザインというのがあるということです。

僕の本でも第1章で「ウェブサイトをデザインする際の境界線問題」として少し触れておきましたが、ごく一部のいつも頻繁に使っているサイトを除けば、僕らって普段、Webサイトを使ってるっていうより、Webを使ってるはずです。そこにちゃんと気がつけば、個別のWebサイトをもっとユーザーに役立つようにしましょうってこと以上に、Webそのものを役立つにようにするにはどうすればよいかっていうデザインのほうが実は大事なんじゃないかって話になってもいいと思っています。

実際、そういうことやってるのがW3Cの仕事などでしょう。
もちろん、W3Cによって標準化されるものだけが、Webをデザインするということでもありません。それに標準化だけがWebそのものをデザインする手段でもありません。標準化とは何かがうまくいかなかったり、うまくいく方法が見つからない場合の代替手段でしかありません(近代以降そのことはすっかり忘れられていますが)。
microformatsとか、セマンティックWebなどの標準化を目指す方向ではない形で、バラバラの情報をいかにつなぎとめるかという大きな情報のデザインの方法を考える必要があるなと感じるわけです。

例えば、Googleのような方法もバラバラの情報をつなぐ1つの方法です。僕は標準化を目指す方向性よりはGoogleのような方法のほうが好きです(というか、代替手段でしかない標準化で済ませようって魂胆が好きになれない)。けれど、Googleの方法がバラバラの情報をつなげられているかというと、実はそうではない。Googleの方法というのは結局は分類的方法で、それだとまったく無関係の近くと遠くがつながらない(「一見縁遠きものたちの間に脈絡を付ける」参照)。人間であれば偶然の出会いで恋に落ち、その後、愛を育むようなつながりが生まれない。そこはやっぱり不満なわけです。

新しいコンピューティングの方法

著者もまた、インターネットの連繋力に目を向けつつも、「しかし」と前置きした上で、僕らの脳の「ニューロンの予測不能な鹿の跳躍に一番似たものと言えば、ハイパーリンクされたマトリックスをロココ時代にあって先駆していた祖たち、とりわけピラネージの、アナロジーに基づく奇想作(capriccio)に指を屈する」といいます。同時に、18世紀の「エキゾティックな動物、奇態な貝殻、面白い形をした石、珍しい花の絵」が詰め込まれた驚異博物館にコンピュータの原型を見る著者は、ピラネージに関しては前作に続いてとりあげつつ、

このヴェネツィア人建築家が途方もなくかけ離れた時代から掻き集めてきた全然没関係の廃墟同士を濃密な版画中にどんどん紡ぎ合わせていった作は、これまた見る者に洗練された理解力を要求する。
バーバラ・M・スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』

と書いていますが、この「全然没関係の」もの同士を「かけ離れた」場所・時間から掻き集めて、ひとつのイメージに紡ぎ合わせる作業に僕は愛が人に描かせる思い出のバラバラな素材を濃密につなぎとめたあのイメージのことを考えずにはいられないのです。
はたしてこのようなバラバラのものをつなぎとめようとする人間のもつイメージの力というのはいったい何なのか。それをもっと深く理解することで、バラバラの情報をつなぎとめるための新しい情報デザイン術、情報編集術として用いることはできないのか。

実は最近はそんなことばかり考えています。

アルス・コンビナトリア

著者もこの本で言及しているライプニッツの結合術(アルス・コンビナトリア)

ジョン・ノイバウアーの『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』によれば、ライプニッツの結合術あるいは順列組み合わせは、「形式と形式変化についての普遍学」であり、「思考が対象とするあらゆる領域の同一性の規則ばかりか、相似、シンメトリー、分類といった規則を明らかにする」ものだとされます。

『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』という本に関してもまた後日紹介しようと思いますが、発明術や百科全書学にも通じるこのライプニッツの系譜のアルス・コンビナトリアは情報デザインのこれからを考えるうえでなかなかおもしろいものかなと思っています。キーとなるのはやはり同一と差異を中心に考えられてきた分類学的方法だけではなく、異なるものの類似を見て、そこに欠如による愛にも似た欲望をエンジンとするつながりを見出すそんなしくみなのかなと思うのです。

ライプニッツの存在論は美学と合して、個を、個を超えるものとハイパーリンクするところの、還元せず繋げるひとつの巨大プログラムを形づくっている。
バーバラ・M・スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』

この歳になると(いや、この歳だと必ずそうなるわけではないでしょうけど)、自分の身体・自分の存在って、別に自分のものじゃないなということに気が付いてきます。自分はあくまで肉体・存在の管理者であって、いちお、自分の意識もそこに住みついているから自分の肉体や存在をおびやかすものには抵抗しますけど、でも、かといって、自分という存在が自分だけのものだという風には思わなくなってきます。僕の身体や存在は、これまでなにがしかの愛によってつながってきた人たちのものでもあるわけで、その人たちのためにも僕は管理者として、この肉体・存在を守らないといけないんだなって思うわけです。

で、その感覚っていったい何だろう? この個を超えたハイパーリンクって、身体を超えたところにも応用できないのかなとそんな風なことをこの本や前作の『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』などを読むと考えさせられるわけなのです。

おっ、久しぶりにブログ名にあったことが書けたかな。



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