学びと創造性

みなさん、どうも勘違いされているようですが、人間って本来、創造的な生き物です。
それをどういうわけか「創造性を発揮するにはどうすればいいのか?」ってヘンな議論になったりする(僕自身、勘違いして同じことをやっていたわけですが)。

本来、生物として創造的なんだから、あらためて創造的になろうとすること自体、おかしいわけです。でもね、確かにそうしなきゃいけない理由もある。それは何かというと、創造的でなくなるようなことを、いまの人間ってあまりに多くやってしまっているから。それも日常茶飯事に。

創造的でなくなるための日常的な行為

創造的かどうかって、ようは新しく何かを生み出せてるかってことです。ある人が創造的かどうかは、その人が新しく何かを生み出すということをどの程度の頻度でやってるかってことにほかなりません。

でもね、創造的でありたいとか思いつつ、ほとんどの人が何かわからないことがあると既存の答えを探そうとしたりしませんか? グーグルで検索するのもそうだし、他人に答えを求めるのもそう。何か分からないことがあると自分でろくに勉強もせずに、セミナーで人の話を聞いて理解しようとしたりします。
それって、まったく創造的じゃないですよね。

何かを理解するのに事例に頼ったり、何になりたいかと考えるとき見本となるロールモデルがないとわからなかったり、何になりたいと質問されて既存の職種を答えたり。自分を既存の答えやカテゴリーに合わせるのに日々多くの時間を使っている人が、そのおなじ口で「創造的でありたい」とかいうのは本当にどうかしてます。本当に創造的であろうとすれば、既存の答えを探したりしないはずです。

何かというと創造性だのクリエイティブだのいいますけど、本当に意味わかって言ってますか?って思います。
本気で創造的な人間になりたいと思うなら、何になりたいと思っているかと訊かれたら、「おれ自身です」くらいのことを言ってほしいです。まぁ、本当にそう答える人がいたら、それがどういうことなのかを根掘り葉掘り質問攻めにしますけどw

正しい答えとか見つけようとするからいけない

クリエイティブになるための1つの視点」で、クリエイティブになるために心がけることは、外部と能動的に関わることで変化を生み出そうとすることだと書きましたけど、本来、外部と関わってれば人間って自然と創造性を発揮せざるをえないと思うんですね。

誰かに何かを質問されて、誰かがつくったような答えではなく、自分で考えて考え抜いた答えを返そうとすればそれだけで創造的であるはずです。それを正しい答えを言わなくてはいけないと思って、既存の答えを探そうとするから、新しいものを生み出す創造性とはどんどんかけ離れていく。相手との一期一会の場をわざわざ他の場所で使い古されてきたような正解ばかりを使って埋め尽くし、一言も自分の言葉を話さず、自分の感覚で相手の話を受け止めようとしない。出された質問に答えるのにも信頼できると思いこんだありがちな方法論を使って答えてしまえば、そりゃ、どこからも新しいものが生まれるはずはないでしょう。

相手との一期一会の場を創造のために使おうと思えば、できるだけ相手の発する言葉を自分自身の感覚で受け止め、自分自身の言葉で返せばいいだけです。それを正しい答えを言わなきゃいけないと思ったり、相手や相手の言葉を何かのカテゴリーに無理やり押し込んで理解しようとしたり、そんな余計なことばかりしてるから創造性は失われるわけです。

方法と目的を取り違えてませんか?

普通にやってれば本当は人間なんて創造的なわけです。それをやたらと方法にこだわるから創造性を失うわけです。

ペルソナが流行ればペルソナって何かを知りたがる。知りたがるのはいいんですけど、じゃあ、なんで自分で知るための努力をしないの?って思います。なにか正しいペルソナ/シナリオ法っていうのがあるとでも思ってるんですかね? ペルソナなんて、それがどんな問題を解決する作業を手助けしてくれるツールなのかをちゃんと理解しさえすれば、あとは自分で使いやすいように勝手に作り変えちゃばいいだけなのにね。

もちろん、それはどんなツール・方法でもおなじこと。それがどんな役割を果たしてくれるものかを理解しさえすれば、別にその方法にこだわる必要なんてない。それなのに方法そのものを知りたがるし、それでいて自分でそれがどんな役に立つのかを考えてみようともしない。何の役に立つのかを考えずに、どうして方法に興味をもてるんだろ?って逆に不思議に思いますけど、僕なんかは。

方法と目的を完全に取り違えちゃってるんですよね。目的の達成を考えるんじゃなくて、方法ばかりを求めてしまう。方法そのものが目的になってしまう。何か正しい方法があるかと勘違いして、その答えを学ぼうとするからおかしくなる。そうじゃないでしょ?って思う。創造性は方法を学ぶことだけじゃ発揮されません。むしろ、さっきも書いたように方法ばかりに頼ろうとするから、本来、人間が持っている創造的な性質を失ってしまう。

勉強するってことを答えを知ることだと勘違いしてません?

そりゃ、創造性を発揮するのにも道具や適切な方法を使ったほうがラクなことはある。でも、それは創造的な結果を生み出すという目的にフォーカスしてるからいいのであって、方法から入ったら何も生まれてはきませんよ。

それなのに方法ばかりに着目して、その方法が何に役立ったのかという事例を知りたがる。うーむ、何と言っていいのやら。
学校で間違った勉強の仕方をしてきちゃったんですかね? それとも、社会人になって自分で考えるとか、自分で答えをつくるという勉強の仕方を忘れてしまったのでしょうか?

勉強する、学ぶとはどういうことなのか。なんか、そんなことを考えちゃいますね。

勉強とか学びとかって、答えを知るってことじゃないですよね。単純に知識を増やすことではまったくない。本を読むこと、それ自体は勉強でもなんでもない。いろんなことに興味があるので僕だって本は読みますが、それはあくまで勉強をはじめるにあたっての準備運動的なもの。最低限知らなきゃいけないことは押さえておかないと、実際の学びのための活動のスタート地点にも立てません。
本当の勉強はそのあとから。スタート地点に立って自分で走り出してからが勉強です。走りながら、自分のできることの範囲を増やしたり、よりうまくできるようになったり、自分の視野を広げたり、そういう自分を磨く方向での学びにつながる活動を勉強と呼ぶのかなと思います。

学ぶ前からむずかしそーとか思ってれば学ぶ前から負けてます

また、ペルソナの話に戻りますけど、ペルソナだとかユーザー中心のデザインの話をしていて、口では興味があるといいながら、さっぱり自分で勉強してわかろうとしない人が本当に多いんですね。何なの、それ?流行りだから知っておきたいだけですか?
本当に自分が何かをデザインするなかでペルソナを使おうという気があれば、まずはできないなりにも自分でやってみるしかないと思いますよ。ちゃんとできるようになるためにはそれなりに経験を重ねることが当然必要ですけど、そもそもそれがどういうもので、やり方はどうするかという程度のことなら本を数冊読んで、自分なりにそこに書かれたことを整理してみれば、2、3ヶ月もあればできることです。そこまではスタートに立つためのストレッチみたいなもの。

実際、僕が前の会社でペルソナなんてまるで知らない状態から『ペルソナ戦略』読んでペルソナ作成のコンサルティングをするサービスリリースまでには3ヶ月くらいしかかかりませんでしたよ。僕にそれができたのは最初からペルソナに正しい方法なんてないとわかっていたからです。自分なりのペルソナ法をつくらないとどうにもならないと思ってた。だから、3ヶ月でそこまで辿りつけたんだと思います。

ペルソナってなんだかすごそうな方法だとか、むずかしそうだとか思ってたら最初から負けてます。最初から自分がもっといいものに変えてやるよと思っていれば、別に正解を探す必要などなくて、勉強の仕方もまったく変わってくる
それに大事なのはペルソナ/シナリオ法という方法そのものではなくて、それを使って何を解決できるかということを具体的に創造していくことですからね。

機会をつくるのも勉強。経験できる場をつくるのも勉強

もちろん、僕の場合、UCDに関する知識はその前からあったわけですし、その3か月の間に社内でユーザー調査の練習や調査データの分析・統合の仕方も繰り返しやってみたりもしました。当然、実際にペルソナやシナリオを書いたりもしました。それがクライアントのビジネスにどう役立つかを考えたり議論したりもしましたし、実際に仕事が受注できるまで何度も営業したし、提案したりした。そこまでなら別に誰かにやり方なんか教えてもらわなくてもやる気があればどうにでもなる。

最初に本を読んで、おおまかにそれが何かということをつかんだりするのは、勉強するための身支度みたいなもんです。そこから、わからないなりに自分で本をちょこちょこ参照しながらでも、実際にやってみることこそが勉強です。いっしょにやってくれる仲間と会社の理解とバックアップがあればいうことないですけど、それがなければ、それを作る行動をするのも勉強ですよね。まさに「機会がないとか経験がないとかいうけれど」ですよね。機会をつくるのも勉強。経験できる場をつくるのも勉強です。そういう勉強をしないで、いったい何をわかろうとしてるのか僕にはわかりません。

学ぶということ自体が創造

もちろん、ペルソナの話は1つの例です。ただ、ほかの方法でも話はおなじです。

本当に学ぶ気があったら知識を得ること自体を目的にするのではなくて、自分の目的を達成することに注力して、その視点から方法が適切かどうかを自分がそれを使うなかで判断できる目をもつことを学ばないと意味はありません。それに最初から書いているように人間にはそうしや創造的な学びの力がそもそも備わっているのですから、それを使わずにわざわざ他人のお古のような方法にすがろうとするからいつまで経っても何も身に付かないわけです。

学ぶということ自体が創造です。学ぶということは何より新しいことにチャレンジして、自分自身を変えていくことにほかならないのですから。自分を変える以上の創造的な行為ってないと思うんですけど。

   

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