作業を共有することの重要性と可能性

土日の箱根合宿で学生さんたちのグループワークを見ていて、あらためて「みんなで手を動かしながら考える」こと=グループワークの重要性と可能性に気づかせてもらいました。



Human Computer Interaction(HCI)とかHuman Information Interaction(HII)などの研究分野がありますが、そもそも、Human Human InteractionやHuman Environment Interactionといった角度からもっと研究していかないと、ホモ・サピエンスという生き物やそれがつくる情報化社会というものを理解できないのでは?って思います。

作業を共有する

みんなで手を動かしながら考えることの重要性は、『ペルソナ作って、それからどうするの?』のなかでも、UCDを実践する上での重要なポイントの1つとして挙げてます。

自分の考えを整理して明確に伝えるためにも、他人とアイデアを検討する際にも、物理的なアウトプットを手で作ったり、並べ直したりしながら考えるほうが、物事をより具体的に考えられるし、見えないものが見えてくるようにもなります。

でも、合宿に参加してみて、この記述ではちょっと足りないなと感じました。たぶん、うまくデザインされたグループワークによる作業の共有から得られるものはもっと大きいのだと思います。

作業の共有は言葉でのコミュニケーション以上のものを可能にする

そもそも、昨日のリフレクションでも書きましたが、限られた時間に一定の成果を出すワークショップの場においては、作業の共有そのものが見知らぬ同士のコミュニケーションを可能にします

特にスパゲティ・キャンチレバーのようなワークショップの場合、スパゲティという物理的素材、そして、どれだけ長く伸ばせるかという遊びの要素をもっていることで、よりコミュニケーションが成り立ちやすくなっています。
言葉だけのコミュニケーションではうまくいかない場合でも具体的なモノを介して作業を共有することで、多くの言葉を使わなくても言葉で表現できる以上のロジックが視覚から伝わってくるモノのイメージそのもので共有可能です。

視覚することでのみ思考するような直観的方法

これは思考する上では非常に大きなメリットじゃないかと思うのです。

思考というと、どうしても僕らは言葉で考えることを想像しがちです。
でも、高山宏さんやバーバラ・スタフォードが言うように、人間の思考には言語的思考だけでなく、「視覚することでのみ思考するような直観的方法」というものもあります。視覚そのものがもたらす直観のなかにすでに言葉にしきれないロジックが含まれている。それを言葉に翻訳する過程を省いて相手と共有することができる点こそが、手を動かしながら考える作業を共有することのメリットなんだとあらためて思いました。

参加的

スタフォードは視覚がもたらすアナロジーによる直観的思考法を参加的(participatory)と呼びます

まさに作業の共有は、言葉を介して客観的に思考するのとは違い、いっしょに作業する人、そして、作業に用いられるモノが存在するその場に参加することが必須となります。

ここでもう一度、『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』のなかで、佐治晴夫さんと松岡正剛さんが交わしていた、こんな会話が思い出されます。

佐治 やっぱり事象のなかに自分を重ねることができなくて、遠くから見ているんでしょうか。自分を重ねるのが怖いんでしょうね。
松岡 オペレーション(処理)してしまって、ドライブ(能動)していない。

スパゲティ・キャンチレバーのように作業の共有が行われる場では、作業者は作業の只中に参加せざるをえず、その場をオペレーションするよりドライブしなくてはいけない状況に否応なく追いやられます。それを拒むことは作業そのものを拒むことになり、それではグループワーク自体が成り立ちません。

同じワークショップでも言葉だけを使うワークだと、やはり作業の場そのものとのあいだに言葉という媒介が入ってしまい、グループワークの参加者が実は遠くから言葉を投げかけているだけで、実際には参加ではなく処理してしまうということにもなりがちです。

読み手の力

もちろん、言葉だと必ずそうなるわけではないのですが、抽象化された言葉も具象に戻せる能力をもった人でないと、なかなか言葉で描かれた世界そのものに入り込むのはむずかしいはずです。どんなに抽象的に言葉で書かれた本でも読み手に力があれば、その世界に入り込むのは可能ですが、それがないと「抽象的だからわからない」という評価にもなる。

現代の人は読みにくい本があると、当たり前のように書き手のせいだと思いがちですが、中世まではそう認識されていたように読書という行為は読み手の側にも力がなければ成り立たないものです。

そういうことも含め、中世までは明らかに言葉の限界が理解されており、そうであるがゆえに言葉は視覚的イメージや世界そのものと深く結びついていたのでしょう。

言葉と視覚イメージ

すこし話が逸れました。

スタフォードの本を読めばわかりますが、近代は徹底的に言葉による思考を上位とし、イメージによる直観的思考を下位のものに貶めてしまいました。
その方向性がいまも僕らに考えるというと、言葉で考えることであるかのような幻想を抱かせてしまっています。

それが視覚的要素を取り扱うはずのデザインの作業そのものまで言葉で占有しようとしています。言葉を使うことは悪くないのですが、その場合は「最初にパッと絵が浮かぶ」ような訓練ができている人じゃないとむずかしいし、それができる人でさえ、やっぱり具体的な視覚イメージを用いずに作業すればアイデアの幅は狭くなってしまうはずです。

ましてや多くの場合、デザインの作業はグループワークになりがちです。ただ、それがバケツリレー的な分業方式のワークスタイルだと必ず言葉による説明が必要になってきます。視覚化の過程が共有されていないために、できたものだけを見て直観的な判断ができないから。

そんなことも含めて、あらためて具体的な視覚要素をつくる作業を共有することの重要性を感じるのです。いや、これは単にデザインの問題ではなく、人間という生き物の思考を考え直す意味でも重要なことだと思います。もちろん、それ自体がリデザインの作業ではあるのですが。

というか、この方向での研究ってまだまだ未開で、かなり探求しがいがあるんじゃないだろうか? それとも、僕が無知なだけ?

   

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