中世の秋/ホイジンガ

そもそも人間はそう簡単に自分の外にある対象を自分の中に受けとめることができないのだろう。 いま多くのことを理解しているつもりになっているとしても、それは歴史上多くの人たちが苦労を重ねて理解できるようにしたことを単に、その理解の結果を借用して自分で理解したかのようなつもりになっているだけのことだ。 そうした積み重ねがまだ不十分であったヨーロッパ中世の人々は、いまよりはるかに少ない理解で、世界、社会で起こる様々な出来事を受け止めなくてはならなかったのである。 その前提に立って中世の人々の様子を眺めれば、それがどんなに今と懸け離れた奇妙なものに映ったとしても、仕方がないと考えられるのではないだろうか。 何か理解していないことを理解した状態に移行させるのにも、それなりに労力がいる。 その労力をかけて何か新しいことを理解するかどうかは、かかる労力と労力をかけて得られる価値を天秤にかけて判断しているのかもしれない。好奇心が強ければ労力を払うし、面倒くさがりだったり何か理解することそのものが苦手で必要以上に労力がかかる場合は、理解しようとすることを避けるだろう。 その場合、何か理解を助けるものが必要となる。わかりやすく言い換えたり、漫画にしたり、事例を示したり。 中世後期ではその役割をアレゴリー=喩えが果たした。 中世後期の人びとの文化や思考の形を明らかにした『中世の秋』で、ホイジンガはその社会においては「意味とは、すなわち、しるし(サイン)のことにほかならない」状態…

続きを読む

ファウスト/ゲーテ

2018年、こちらのブログの書き始め。 noteの方にも書き始めたので、年末年始そっちばかり更新していたせいもあって、気がつけばもう19日。 noteのほうもよろしくです。 → Hiroki Tanahashi | note さて、今年はゲーテの『ファウスト』からはじめていたい。 昨年の最後の記事に書いた通り、2018年はゲーテについて考えてみようと思っている。 なぜ、ゲーテなのか? まず、詩人、劇作家、小説家としてドイツを代表する文豪である一方、色彩論や生物形態学、地質学などの分野で自然科学舎としても後につながる功績を残し、また、26歳で移ったヴァイマル公国で政務にも関わるようになり、33歳には公国の宰相にもなっている多才なゲーテという人について興味がある。 文学と自然科学、そして、政治という今ならつながることがほとんどありえなさそうな領域横断を一身で体現した、その思考の有り様と、それらがつながることで成されたものが何かということを考えてみたい。 また、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、1749年、ドイツ・フランクフルトに生まれ、1832年ヴァイマルで没しているが、この18世紀から19世紀を股にかけた人生は、イギリスを皮切りに産業革命が進み、フランスでは革命が起き、そして、ナポレオンのウィーン占領により1806年には中世から続いた神聖ローマ帝国が消滅する、といったような大きな変革の時代に重なっていて、ゲーテを通じて、その激動の時代の人々の思考や生活様…

続きを読む