エロティシズムの歴史:呪われた部分 普遍経済論の試み 第2巻/ジョルジュ・バタイユ

以前に紹介した本、『形象の力』の冒頭、エルネスト・グラッシはこんな謎めいた言葉を綴っている。 人間であるぼくは火によって原生林の不気味さを破壊し、人間の場所を作り出すが、それは人間の実現した超越を享け合うゆえに、根源的に神聖な場所となる。これをぼくに許したのは、自然自身であり、ぼくは精神の、知の奇蹟の前に佇んでいるのだ。自然がぼくを欺瞞的に釈放し、ぼくは自然から身を遠ざけ、ぼくは想像もできない距離を闊歩し、歴史がぼくを介して自然を突っ切り始め、ふいにぼくは気がつくのである、目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいることか。 エルネスト・グラッシ『形象の力』 ここで綴られていることは、今回、紹介する『エロティシズムの歴史』でジョルジュ・バタイユが「人間とは、自然を否定する動物である」というのと同じだ。 しかし、人間がどんなに自然を否定しようと、グラッシも気づいているように「目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいる」。 そして、人間が一度は切り捨て、闇に葬り去ったはずの、自然との紐帯が何度も人間のもとに闇のなかから回帰してくるからこそ、本書の主題であるエロティシズムも成立する。 エロティシズムとは一言でいえば、自然あるいは獣性と見えないほどの糸でつながっていることに気づいた人間の拒絶と欲望の入り混じった両義的な有り様だといえるだろう。

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征服され、欲望を感じて〈私〉は融解する

難解で重苦しく、絶望的な暗さを響かせもする言葉に最近は惹かれたりする。 あまりに明快で、わかりやすく、それゆえに何も告げていない言葉はむしろ不快すぎて目障りだ。 明るく明解で合理的すぎる思考に魅力を感じないのは普段から変わらないが、それにしても、ここ1ヶ月くらいは普段にも増して、ドロドロとした粘着性をもった腐敗したような思考の外に遺棄されたようなものに臭いに引き寄せられる傾向がある。 企図されたもの。明らかすぎる知識。 わかりやすさについては、元よりまったく魅力を感じないし、かねてから社会の毒だと思っている。 それは単に人を惑わし奴隷にする手枷足枷でしかない。そんなものを喜んで自ら引き受けようとする人たちの気が知れない。 「決断とは、最悪のものを前にして生ずるもの、超克するものの謂だ。それは勇気の核心だ。そしてそれは企ての反対物だ」とバタイユはいう。企てという明るすぎる道のみを安全に進もうとする意思。いったい、それのどこが面白いのか。一度も決断することなく、歩まずともすでにわかっている結末に向かって、なにも考えないまま進んでいく。心をドキドキさせる不安はそこにはただの1ミリもない。 バタイユは、そんな企てに、内的体験なるものを対置する。 「内的体験は行為の反対物であって、それ以上のものでもないのだ。「行為」は完全に企ての支配下にある」と。 私はどのようにしても逃げることはできず、限りない全面的衰弱のなかに投げ込まれ、私自身へと投げ捨てられ、いや、もっと悪い、私…

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