2017年11月19日

エロティシズムの歴史:呪われた部分 普遍経済論の試み 第2巻/ジョルジュ・バタイユ

以前に紹介した本、『形象の力』の冒頭、エルネスト・グラッシはこんな謎めいた言葉を綴っている。
人間であるぼくは火によって原生林の不気味さを破壊し、人間の場所を作り出すが、それは人間の実現した超越を享け合うゆえに、根源的に神聖な場所となる。これをぼくに許したのは、自然自身であり、ぼくは精神の、知の奇蹟の前に佇んでいるのだ。自然がぼくを欺瞞的に釈放し、ぼくは自然から身を遠ざけ、ぼくは想像もできない距離を闊歩し、歴史がぼくを介して自然を突っ切り始め、ふいにぼくは気がつくのである、目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいることか。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

ここで綴られていることは、今回、紹介する『エロティシズムの歴史』でジョルジュ・バタイユが「人間とは、自然を否定する動物である」というのと同じだ。

エロティシズムの歴史


しかし、人間がどんなに自然を否定しようと、グラッシも気づいているように「目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいる」。
そして、人間が一度は切り捨て、闇に葬り去ったはずの、自然との紐帯が何度も人間のもとに闇のなかから回帰してくるからこそ、本書の主題であるエロティシズムも成立する。

エロティシズムとは一言でいえば、自然あるいは獣性と見えないほどの糸でつながっていることに気づいた人間の拒絶と欲望の入り混じった両義的な有り様だといえるだろう。
「エロティシズムの歴史:呪われた部分 普遍経済論の試み 第2巻/ジョルジュ・バタイユ」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 19:29| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

征服され、欲望を感じて〈私〉は融解する

難解で重苦しく、絶望的な暗さを響かせもする言葉に最近は惹かれたりする。
あまりに明快で、わかりやすく、それゆえに何も告げていない言葉はむしろ不快すぎて目障りだ。



明るく明解で合理的すぎる思考に魅力を感じないのは普段から変わらないが、それにしても、ここ1ヶ月くらいは普段にも増して、ドロドロとした粘着性をもった腐敗したような思考の外に遺棄されたようなものに臭いに引き寄せられる傾向がある。

企図されたもの。明らかすぎる知識。
わかりやすさについては、元よりまったく魅力を感じないし、かねてから社会の毒だと思っている。
それは単に人を惑わし奴隷にする手枷足枷でしかない。そんなものを喜んで自ら引き受けようとする人たちの気が知れない。

「決断とは、最悪のものを前にして生ずるもの、超克するものの謂だ。それは勇気の核心だ。そしてそれは企ての反対物だ」とバタイユはいう。企てという明るすぎる道のみを安全に進もうとする意思。いったい、それのどこが面白いのか。一度も決断することなく、歩まずともすでにわかっている結末に向かって、なにも考えないまま進んでいく。心をドキドキさせる不安はそこにはただの1ミリもない。
バタイユは、そんな企てに、内的体験なるものを対置する。
「内的体験は行為の反対物であって、それ以上のものでもないのだ。「行為」は完全に企ての支配下にある」と。
私はどのようにしても逃げることはできず、限りない全面的衰弱のなかに投げ込まれ、私自身へと投げ捨てられ、いや、もっと悪い、私は空虚で、無関心であるだろう。だが内的体験は征服行為であり、そして、征服行為として、他者のためのものなのだ! この体験においては主体は錯乱し、客体のなかにおのれを滅ぼす。そして客体自体もまた消滅するのである。
ジョルジュ・バタイユ『内的体験』

逃げることのできない征服行為。征服行為である内的体験のなかで私は錯乱し、征服してくるドロドロとした腐敗的な得体の知れない他者のなかに崩れ、融解する。それが最初から決まったゴールに何の危険も犯さずに進む企てとは正反対なのは明らかだ。
けれど、この腐敗に征服され、自らを投げ捨てる勇気をもった内的体験への衰弱した意思こそが、実のところ、生きた心地を感じさせる唯一のもののような気がしている。

「征服され、欲望を感じて〈私〉は融解する」の続き
ラベル:バタイユ
posted by HIROKI tanahashi at 01:14| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月04日

集団を動かすもの - システム、コンセプト、非知的なもの

人を動かすのにシステム以上に強力なもの、それは人が信じている概念(=コンセプト)であり、それを指し示す言葉なのだと思う。

だから、システムに沿って受動的に動いてもらうより、何らかの概念を理解してもらい、その概念の存在を信じて受け入れてもらったほうが人は主体的に動くようになる。その概念があまりに当たり前になって普段は意識することもないくらいに自然なものになれば、その概念に関連した行動はもはや自動的なものにすらなるだろう。



例えば、喫煙は他人の迷惑のかからない喫煙エリアで行うとか、性的指向は多様なのだから性的少数者の権利も認めるのは当然であるとか、それらはルールやシステムの問題である以上に、考え方、どのようなコンセプトをどう信じて行動する上での判断基準として用いているかという問題である。もちろん、人が信じる判断基準と現実のルールやシステムに乖離があれば、現行のルールやシステムを改編する必要があるが、その逆にルールやシステムの側から変えようとすると、一部の人には心理的な違和感が生じてしまうこともあるはずだ。

いくつか前の記事「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」で、シェイクスピアの戯曲『オセロー』の主人公が恋愛に対して初心すぎて恋愛については紋切り型の瑣末な知識しか持たなかったがゆえに、自分を憎む部下に欺かれて、愛する妻の浮気を疑い、怒りのあまり殺してしまうという痛ましい結末に至る際の、言葉=知識のもつ力の怖さについて触れていたが、それも同じことだ。浮気は裏切りであるという考えと、悪どい部下の吹きこむ偽りの言葉があまりに安易に結びついてしまい、ありもしない浮気を疑い、愛する妻の殺害へというどう考えても高いエネルギーを必要とする行動へと主人公の思考を動かしてしまう。

そういう観点からみれば、組織やコミュニティにおいても、単にルールやシステム、やり方などだけを共有しているものよりも、価値観だとか文化とかを共有しているもののほうが、組織や集団としての行動力は強くなるはずである。
強烈に価値観が共有できていれば、その組織やコミュニティがもつ力は強力なものになるだろう。
「集団を動かすもの - システム、コンセプト、非知的なもの」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 01:54| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする