2017年06月25日

知力とは、わからないことをどれだけ考えられるかという度合い

前に、友人のフランス人女性が言っていた「日本語には美味しいを示す言葉のバリエーションが少ない」という言葉が記憶に残っている(正確には、その女性がそう言っていると彼女のパートナーの日本人男性が教えてくれた)。


Ca a l'air tres bon.


一方、フランス語には、美味しいを表すたくさんの表現があって、例えば、
  • C'est bon !
  • C'est délicieux !
  • C’est succulent !
  • C’est excellent !

のような表現がある(日本語にしようとしても、どれも「美味しい」になってしまいそう)。
もちろん、これに très をつけて、C'est très bon !(とても美味しいです)と言ってみたりもするから、確かに日本語にはない「美味しい」の言い分けのバリエーションができる。

「美味しい」という言い方にバリエーションなんてなくてもいいじゃないかと思うかもしれない。けれど、そうじゃない。
フランスで食事をしてると店の人がほぼ必ずといっていいくらい、食中、食後によらず「美味しいか?」「美味しかったか?」と訊いてくるから、こんな風に表現のバリエーションがあるのは役に立つ。

その意味では、日本人がフランス人に比べて味の違いがわからないという話ではなく、こんな風に食べた感想を言う場面が日常的に多くないというのも、表現数の違いには関係しているのだろうと思う。
区別する価値があるからこそ、区別をするのだ。

さて、ここで思うのは、「1.違いを感じとれる」ことと、「2.感じた違いを表現する」ことという2つの能力が物事を捉えるためには必要になっていそうだということである。

そもそも味の違いが感じとれなければ、違いが存在するということすら、わからないんだろうけど、問題なのは、なんとなく違うかもと感じかけたのにその違いにちゃんと向き合わず、スルーしてしまうことだ。
もちろん、ここで言ってるのは、味の違いがわかるようになろうという話ではなく、より一般的な意味で「わかるようになるには?」ということを考えているのだ。

さあ、ということで、「わからない」という状態をいかに「わかる」に変えるかということについて考えてみたい。

「知力とは、わからないことをどれだけ考えられるかという度合い」の続き
ラベル:未知 好奇心
posted by HIROKI tanahashi at 19:26| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする