2017年06月08日

わかることよりも感じることを

文脈がわからなければ「わからない」。

『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』の著者・西林克彦さんはそう言っている。
言い方を変えれば、「わかる」とは、既知の文脈に、その直前までわかっていなかったことがピタッとあてはまることで起こる心の動きだということができる。



いや、わかっていなかったことじゃなくてもいい。
すでにわかってたことでも、それが今までの理解とは別の文脈にあてはまり、別の意味がそこから見えてきたときも人は「わかった」となるはずである。

西林さんもこんなことを書いている。
文脈の交換によって、新しい意味が引き出せるということは、その文脈を使わなければ、私たちにはその意味が見えなかっただろうということです。すなわち、私たちには、私たちが気に留め、それを使って積極的に問うたことしか見えないのです。それ以外のことは、「見えていない」とも思わないのです。
西林克彦『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』

既知の事柄でも、それを理解していたのとは別の文脈からみてみると、まったく異なる別の意味が見えてくることもある。それは「わかる」ということの土台には既知の文脈があり、その文脈との結びつきが何かをわからせることにもなるし、逆に、それ以外の理解の仕方の可能性を閉ざすことにもなるというわけだ。
知ることは同時に、知らなくさせるでもあるということだ。

このことが基本的にわかっていない、と、1つ前で書いたような「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」という状況にはまりやすくなる。
この言葉(ノヴァーリスの小説『サイスの弟子たち』のなかの言葉だ)のあとには「理解力が無いと、自分がすでに持っているものしか求めない」という文が続くのだが、まさに自分がすでに持っている文脈に囚われると、それ以外の「わかった!」に出会えなくなるという具合である。「だから、それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」と。

「わかることよりも感じることを」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:25| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする