不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない
「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」
そう。わかりにくいのは対象そのものに宿る問題ではない。むしろ、対象に向かう側の姿勢の問題である。
わかる力がないことが、何かがわからないという際の根本的な問題なのだ。
では、どう、問題なのか?
「理解力が無いと、自分がすでに持っているものしか求めない」
そう。わかっているものしかわからない。
つまり、わかるということ自体、最初から最後まで対象の問題ではなく、わかる側自身の問題なのだ。
対象についてわからない場合だけでなく、対象についてよくわかっている場合でも、わかるということはわかる側のものなのだ。
「だから」と、『サイスの弟子たち』という未完の小説のなかの一連のセリフの最後をノヴァーリスは締めにかかる。
「それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」と。
発見のなさとは自分自身の殻にとじこもり、知的冒険に赴こうとしない、不可解さを嫌う精神を示すものだということをノヴァーリスは述べているのだ。