2017年05月30日

どう見えているのか? どう見えていると自覚しているのか?

ぼんやり過ごしすぎてはいないだろうか。

自分がどんな状況にいて、その状況が自分にどう見え、感じられているかをちゃんと自覚しているだろうか。
自分の行動や感情がそれら状況にどう影響され、あるいは、逆に自分の存在、言動、感情が周囲の状況にどう影響を与えているのか。そういうことをどれだけ自分自身で認識しており、その制御が可能な状態になっているだろうか。


パリ・グランパレの前に置かれた馬のようであり、同時に木のようでもある、王女の姿をした謎の存在。
こうした存在こそ、これからの科学的な視点において大事なものではないかと感じている。


認識すること、そして、その認識を言葉をはじめ、なんらかの技術を用いて表現できるようにすること。
それが世界とうまくやっていくための基本である。

対人関係であろうと、仕事一般のことであろうと、自然を相手にした科学であろうと同様である。
対象の観察からそれを自分にどう見え、感じられているかを理解し、それを自分の言葉なり、その相当物に移し変えること。それが理解であり、その理解のバリエーションによって、対象となる世界をどの程度、自分の側で制御できたり、それになんらかの影響を与えられるかが変わってくる。

とうぜん、どのように見えているか、そして、自分の見え方にどの程度自覚的で、それを自分の言葉なりにすぐさま変換できるかという度合いや種類は人によって異なる。
冒頭書いたように「ぼんやり過ごしすぎている」状態だと、自分が見ているものは何かということを自分で言葉にして説明できないだろうし、その意味で、自分がなぜそこにいて、どんな影響をそこから受け、どんな影響(場合によっては仕打ち)を外に向けて与えてしまっているかということも無自覚ということになる。

ようするに、できる/できないの差は、この状況認識の差から生まれてくるものであるはずだ。
結局、同じ場にいる者同士でも、この状況認識の差がある限り、別の状況の世界に生きているといっても過言ではない。

「どう見えているのか? どう見えていると自覚しているのか?」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:08| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする