どう見えているのか? どう見えていると自覚しているのか?

ぼんやり過ごしすぎてはいないだろうか。 自分がどんな状況にいて、その状況が自分にどう見え、感じられているかをちゃんと自覚しているだろうか。 自分の行動や感情がそれら状況にどう影響され、あるいは、逆に自分の存在、言動、感情が周囲の状況にどう影響を与えているのか。そういうことをどれだけ自分自身で認識しており、その制御が可能な状態になっているだろうか。 パリ・グランパレの前に置かれた馬のようであり、同時に木のようでもある、王女の姿をした謎の存在。 こうした存在こそ、これからの科学的な視点において大事なものではないかと感じている。 認識すること、そして、その認識を言葉をはじめ、なんらかの技術を用いて表現できるようにすること。 それが世界とうまくやっていくための基本である。 対人関係であろうと、仕事一般のことであろうと、自然を相手にした科学であろうと同様である。 対象の観察からそれを自分にどう見え、感じられているかを理解し、それを自分の言葉なり、その相当物に移し変えること。それが理解であり、その理解のバリエーションによって、対象となる世界をどの程度、自分の側で制御できたり、それになんらかの影響を与えられるかが変わってくる。 とうぜん、どのように見えているか、そして、自分の見え方にどの程度自覚的で、それを自分の言葉なりにすぐさま変換できるかという度合いや種類は人によって異なる。 冒頭書いたように「ぼんやり過ごしすぎている」状態だと、自分が見ているものは何かということ…

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肉体的で演劇的!面白まじめのスタンス考(2つのパルナッソスより)

ルーヴル美術館ドゥノン翼の2階、俗にイタリア回廊と呼ばれるギャラリーには、長いまっすぐな廊下の両側にルネサンス期以降のイタリア絵画の名作がずらりと並んでいる。アンドレア・マンテーニャなどの初期ルネサンスの作品をはじめ、レオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリ、ラファエロ・サンティなどの盛期ルネサンスの画家の作品、そして、マニエリスム期に入ってのポントルモなど、どれもこれも日本の美術館での企画展なら主役級の作品ばかりで圧巻だ。 ただ、当然ながら、その時代の絵画は多くの作品が宗教画なので、キリスト教の物語に疎い日本人には解説なしだとどう見ていいかわからなくてちょっととっつきにくい部分があるだろう。 ルーブル美術館のイタリア回廊のポントルモの「聖母子と聖アンナ」などの作品がある付近 そんな中、異彩を放つのが綺想の画家アルチンボルドによる連作「四季」なのだが、それとは違う意味でまた他の作品とは異なる印象を与えてくれる絵がある。 最近、僕のお気に入りに加わった絵たち。 アンドレア・マンテーニャの「パルナッソス」と「美徳の勝利」という2枚の歴史画がそれだ。 歴史画といっても、僕らが想像するような意味での「歴史」を描いた絵ではない。それは古代の神々の様子を描いた絵である。寓意画。 「パルナッソス」ではウェヌスとマルスのカップルが、「美徳の勝利」ではミネルヴァとウェヌスがそれぞれ描かれる。神々を描いたといっても、まわりにある宗教画とは違い、2枚の絵とも滑稽な雰囲気に満ち溢れている。 …

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