2017年04月19日

流動的で複雑な系が前提となった時代にリサーチすることとは?

最近、「リサーチ」について考えている。
どちらかというと「研究」という意味でのリサーチ。でも、もうすこし曖昧に「知りたいことを知ろうとする活動」という意味でリサーチというものを捉えている。それは学術的な意味でのリサーチであっても、産業分野でのリサーチ、デザインリサーチでもいい。あるいは個人的な趣味の範囲でのリサーチも含めて、とにかく「知りたいことを知る」ための活動としてのリサーチがこれから、どう変化していくのか(あるいは、すでに変化しはじめているか)ということに興味がある。
まさに、「これからのリサーチ」についてのリサーチをしたいという思いである。



そんなことをあらためて考えはじめるようになったきっかけの1つは、"我々人類は変わりつつある。人類は自分の創り出したものとあまりに絡み合うようになったので、もはやそれを区別はできない”といった書き出しではじまる、MIT Media Labの“Journal of Design and Science”というメディアに掲載されたダニー・ヒリスの「啓蒙は死んだ、もつれに栄えあれ」という記事だ。

その記事で、ダニー・ヒリスは、自然と人工物の区別はもはや曖昧でしかなく、それらは複雑に絡み合っているのだという。自然物の性質をシミュレートするような人工物をヒリスは「もつれ人工物」と呼んで、次のように書く。
もつれ人工物は、人工的でもあり自然でもある。それは作られたものでもあり、生まれたものでもある。もつれの時代には、両者の差にほとんど意味はない。

人間自体と人工物、自然物と人工物、それらの区別が難しくなった今の状況をヒリスは「もつれの時代」と呼んでいる。
僕が興味があるのは、この「もつれの時代におけるリサーチはどう変化するのか」だ。
「流動的で複雑な系が前提となった時代にリサーチすることとは?」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:25| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月04日

とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽/ポール・バロルスキー

「ヴィッラの庭園には、ユーモラスな彫刻や、お人好しの訪問客を冗談にずぶ濡れにする剽軽な隠し噴水や、ユーモア満点に彫刻や絵画を詰めこんだ奇矯でウィット満点の人工洞窟があった」。

これが『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』で著者のポール・バロルスキーが描くルネサンス文化のイメージだ。




ユーモラス、冗談、剽軽、奇矯、ウィット……。
ルネサンスと聞いて、すぐさまこれらの印象を思い浮かべる人がどれだけいるだろうか。
それくらい、バロルスキーが教えてくれるルネサンスのイメージは、通常のルネサンス像とは距離があるように思う。そして、この距離感こそが僕の興味をひいたものの正体だ。僕は違和感に興味をひかれる。

「この剽軽精神のすべてを一点に凝集した感のあるのが、シエナの裕福な銀行家アゴスティーノ・キージのヴィッラである」と、バロルスキーは続けている。

ここでいうアゴスティーノ・キージのヴィッラは、ローマにある「ヴィッラ・ファルネジーナ」だろう。
その邸宅には、ラファエッロ・サンティが「ガラテアの勝利」を描いた「ガラテアの間」や、建物そのものの設計も担ったバルダッサーレ・ペルッツィによる遠近法を使っただまし絵のみられる「遠近法の間」など、ウィットに富んだ数々の作品が描かれている。

僕が興味をそそられるのは、バロルスキーが続けて書く、こんな「キージの剽軽趣味」があまりに僕らの感覚とはかけ離れているからだ。
キージの剽軽趣味はたとえば、宴会で会食の1コースが終わるたびに、使われた金と銀の皿をテヴェレ河に放り投げさせて客を仰天させたという逸話によく表されている。
ポール・バロルスキー『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』

一皿食べ終われば使っていた高価な食器を放り投げて捨てる。浪費この上ない、無意味な行為だが、これがルネサンスの時代の剽軽な振る舞いだとすれば、この笑いに対する圧倒的な違いはなんなのだろう?

そう不思議に思わずにはいられない。

「とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽/ポール・バロルスキー」の続き
タグ:ルネサンス
posted by HIROKI tanahashi at 22:22| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする