2017年03月07日

形象の力/エルネスト・グラッシ

何年かに一度、世界の見方を教えてくれる本に出会う。

6、7年前に読んだマクルーハンの一連の著作がそうだったし、バタイユの『エロティシズム』もそうだ。ユルジス・バルトルシャイティスの『アナモルフォーズ』やバーバラ・M・スタフォードの『ボディ・クリティシズム』などもそんな本である。

そして、このエルネスト・グラッシの『形象の力』もそんな本の集団に新たに仲間入りした一冊だ。



はじめのほうに出てくる「人間は〈世界未決〉である」という指摘がまず、しっくり来た。

「自分の環境に生きる」動物に対して、人間は「世界を持たない」。
だから、人間は自分が生きる世界とともに「自らを〈形成〉しなければならない」のだと、グラッシはいう。
世界を人工的に意味付けることで、自らが何者かも意味付けることができる。生きる環境と生きる自分自身を同時につくりあげることが人間には求められるということだ。

ギリシア神話で、自らがつくった迷宮にとじこめられた天才発明家ダイダロスを想う。
ダイダロスは蝋でつくった羽根をつけ、その迷宮から脱出することができたが、代償として自らの息子イカロスを失った。その意味で、抜けだした世界は、とじこめられる前にいた世界とは違っていた。
人工的な世界を形成し、それとは別の人工的世界を描くことでもうひとつの閉じ込められた世界から抜け出す。けれど、抜けだして向かった世界もまた別の意味で自ら作りだした迷宮でしかない。

ダイダロスを自分たちの祖先であると考えたマニエリストたちの綺想や驚異を愛する表現行為をヨーロッパ精神史における常数として見出した『迷宮としての世界』のグスタフ・ルネ・ホッケ。その才能を世に出したのが、このグラッシだという。
この『形象の力』を読むと、そのことに納得せざるをえない。
芸術とは、自然的、経験的、日常的な現象を世界突破する試みであり、その〈背後〉にある根源的なものを暴き出す試みであると。(中略)動物と比較してみたときの人間の〈未決〉状況は、芸術という現象が発生可能となるためにはどのように構成されるのか?
エルネスト・グラッシ『形象の力』

自らつくった人工の世界に自らを閉じ込める人間。けれど、その人工の世界の背後にある自然を人間に垣間見せるのもまた人工の術である芸術である。
ある世界から別の世界への入り口を切り裂いてみせるのが芸術。リフレーミングの術であろう。
そして、それこそが形象の力。未決から既決への移行のきっかけ、あるいは、痕跡としての形象。

この形象の力に気づかせてくれた点に、本書のすごさはある。

「形象の力/エルネスト・グラッシ」の続き
タグ:驚異 哲学
posted by HIROKI tanahashi at 22:43| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする