笑いの創造力

笑い。その創造的な力。 前々回の記事で紹介したヤン・コットの『シェイクスピア・カーニヴァル』を読んで以来、中世からルネサンスへと続くカーニヴァル的な笑いの文化に興味をもっている。 笑うということのもつ創造的な力に惹かれたからだ。 笑いは、日常のありふれた枠組みを切り裂く力をもっている。 なので、すぐあとにポール・バロルスキーの『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』を読み、それが読み終わると、これらの研究のきっかけを作ったともいえるミハイル・バフチンの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』を読みはじめた。 思った通り、中世・ルネサンス期の「笑い」には、いま学ぶべきことがある。 特に、既存の枠組みを超えて、新たなものを考えだすという観点では大いに。 今回は、そのあたりについて触れてみたい。

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形象の力/エルネスト・グラッシ

何年かに一度、世界の見方を教えてくれる本に出会う。 6、7年前に読んだマクルーハンの一連の著作がそうだったし、バタイユの『エロティシズム』もそうだ。ユルジス・バルトルシャイティスの『アナモルフォーズ』やバーバラ・M・スタフォードの『ボディ・クリティシズム』などもそんな本である。 そして、このエルネスト・グラッシの『形象の力』もそんな本の集団に新たに仲間入りした一冊だ。 はじめのほうに出てくる「人間は〈世界未決〉である」という指摘がまず、しっくり来た。 「自分の環境に生きる」動物に対して、人間は「世界を持たない」。 だから、人間は自分が生きる世界とともに「自らを〈形成〉しなければならない」のだと、グラッシはいう。 世界を人工的に意味付けることで、自らが何者かも意味付けることができる。生きる環境と生きる自分自身を同時につくりあげることが人間には求められるということだ。 ギリシア神話で、自らがつくった迷宮にとじこめられた天才発明家ダイダロスを想う。 ダイダロスは蝋でつくった羽根をつけ、その迷宮から脱出することができたが、代償として自らの息子イカロスを失った。その意味で、抜けだした世界は、とじこめられる前にいた世界とは違っていた。 人工的な世界を形成し、それとは別の人工的世界を描くことでもうひとつの閉じ込められた世界から抜け出す。けれど、抜けだして向かった世界もまた別の意味で自ら作りだした迷宮でしかない。 ダイダロスを自分たちの祖先であると考えたマニエリ…

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