2017年02月20日

既存の枠組みを冒涜して嗤え、危機感にあふれた時代に

どうやって本を選んでるですか?と聞かれることが、よくある。
その質問の意図は、ここでも紹介しているような、あまり人が読まないような本をどうやって見つけているか?ということだろう。

答えは単純。
ある本を読んでいると、その中にいろんな本が紹介、引用されているから、その中で興味をもったものを買っているだけ。僕自身からすれば、本同士が勝手につながっていく印象なので、選んでいるという感覚はあんまりない。

ただし、買ってもすぐに読むわけではなく、買って置いてある本の中から、次はこれを読もうと選んでいるのだから、やはり何かしらの基準で選んではいるのだろう。
ただ、そのときの基準は「なんとなく」でしかないので、これは答えようがない。

そんな本の連鎖がすごくうまくいく場合がある。最近もあった。

ここ数回続けて「理解する」ことに関する記事を書いた。この3つ。これが本との連鎖を生むきっかけとなった。

この3つの記事で書いてきたのは「理解する」ことと発見することの関係。そして、その発見という、未知のものが既知へと変化する際には、メタファ的な置き換え、あるいは変身ということが起こるといった話。
だいたいそのあたりが3つの記事を貫くテーマだったけど、今回運良く出会ったのもそのあたりに深く関連する本だ。それも2冊。ヤン・コット『シェイクスピア・カーニヴァル』と伊藤博明『綺想の表象学―エンブレムへの招待』がそれ。



コットの『シェイクスピア・カーニヴァル』のほうは、底が頂へと一瞬にして変容するカーニヴァル的な意味転換を論じ、『綺想の表象学』ではルネサンス期におけるヒエログリフ解読、インプレーサとエンブレムの流行の背後にある自然界の表象から隠れた意味を読み解こうとする際の図像と解釈の関係づけが論じられる。
ようは、いずれも何事か理解する際には、特定の表象が無意から有意へ、ある意味から別の意味へと転義あるいは変容されるのだといった、ここ数回論じてきた話しが語られている。

だから、僕の興味を惹かないわけがないし、また違った角度から、新しい理解を発見するということと、機知(ウィット)やユーモア、あるいはグロテスクや不安といったものとの関係をあらたな面から考えるヒントにもなっている。
「既存の枠組みを冒涜して嗤え、危機感にあふれた時代に」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:45| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする