2017年02月24日

シェイクスピア・カーニヴァル/ヤン・コット

何回かぶりの書評記事。
とりあげるのは、ヤン・コットの『シェイクスピア・カーニヴァル』
でも、本の紹介にはいる前にすこし寄り道をしたい。



キリスト教の祝祭が、それまで様々な地域にあった異教の祝祭を吸収・統合しながら成立したことはよく知られている。
たとえば、代表的な祝祭でキリストの生誕祭とされるクリスマスも、古代ローマの祭で、12月17日から23日までの期間に開催されていたサートゥルナーリア祭(農神祭)が元になったと言われている。

この祭、社会的身分制度が覆されることを特徴にしていた。
期間中、奴隷は自由に振る舞い、主人より先に食事をすることが許され、人々はプレゼントを贈りあい、大いに飲んで食べて騒ぐことが許された。マルセル・モースが『贈与論』で語るような贈与性の名残も感じられる祭である。
「シェイクスピア・カーニヴァル/ヤン・コット」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:29| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月20日

既存の枠組みを冒涜して嗤え、危機感にあふれた時代に

どうやって本を選んでるですか?と聞かれることが、よくある。
その質問の意図は、ここでも紹介しているような、あまり人が読まないような本をどうやって見つけているか?ということだろう。

答えは単純。
ある本を読んでいると、その中にいろんな本が紹介、引用されているから、その中で興味をもったものを買っているだけ。僕自身からすれば、本同士が勝手につながっていく印象なので、選んでいるという感覚はあんまりない。

ただし、買ってもすぐに読むわけではなく、買って置いてある本の中から、次はこれを読もうと選んでいるのだから、やはり何かしらの基準で選んではいるのだろう。
ただ、そのときの基準は「なんとなく」でしかないので、これは答えようがない。

そんな本の連鎖がすごくうまくいく場合がある。最近もあった。

ここ数回続けて「理解する」ことに関する記事を書いた。この3つ。これが本との連鎖を生むきっかけとなった。

この3つの記事で書いてきたのは「理解する」ことと発見することの関係。そして、その発見という、未知のものが既知へと変化する際には、メタファ的な置き換え、あるいは変身ということが起こるといった話。
だいたいそのあたりが3つの記事を貫くテーマだったけど、今回運良く出会ったのもそのあたりに深く関連する本だ。それも2冊。ヤン・コット『シェイクスピア・カーニヴァル』と伊藤博明『綺想の表象学―エンブレムへの招待』がそれ。



コットの『シェイクスピア・カーニヴァル』のほうは、底が頂へと一瞬にして変容するカーニヴァル的な意味転換を論じ、『綺想の表象学』ではルネサンス期におけるヒエログリフ解読、インプレーサとエンブレムの流行の背後にある自然界の表象から隠れた意味を読み解こうとする際の図像と解釈の関係づけが論じられる。
ようは、いずれも何事か理解する際には、特定の表象が無意から有意へ、ある意味から別の意味へと転義あるいは変容されるのだといった、ここ数回論じてきた話しが語られている。

だから、僕の興味を惹かないわけがないし、また違った角度から、新しい理解を発見するということと、機知(ウィット)やユーモア、あるいはグロテスクや不安といったものとの関係をあらたな面から考えるヒントにもなっている。
「既存の枠組みを冒涜して嗤え、危機感にあふれた時代に」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:45| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月15日

謎めいたものを理解しようと輪郭をつかもうとしても、不定形なそれはするりと逃げていく

未知を既知に変換すること。理解できないものを理解できるものへと移行させること。
その際には、発見あるいは変身あるいはメタファー的なジャンプが必要であると、前回の記事「発見、メタモルフォーゼ、そして、不一致の一致」では書いた。

未知を既知へと変換すること、それは謎めく不定形な状態に、明らかなる形象を与える行為でもある。世界が謎めいているからこそ、僕らはそれを理解せんと務めるのだろう。
だから、謎に立ち向かうつもりのない人に、まだ見ぬ未来はその姿を開示しようとはしない。形のない闇のような謎のなかに手をつっこむことでしか、人は新しい世界を切り拓くことなど、できない。それはいまにはじまったことではない。

Bruegel,_Pieter_de_Oude_-_De_val_van_icarus_-_hi_res.jpg
ピーテル・ブリューゲルの模写「イカロスの墜落のある風景」(1560年代)
イカロスの墜落を描いたブリューゲルの作品は、オリジナルは失われ、模写のみが残る
ここで面白いのは、イカロスの墜落が牧歌的な農村の風景に埋没している点だ
これこそ後半で書くデュオニュソスとダイダロスの結合による悲喜劇的なものだろう


未来は予測するものではなく、作るものだという時、その制作の際の素材はこの闇のように形のないドロドロとした謎なのである。
その謎めく不定形さと、人意的に与えられる明らかなる形象の関係を、ギリシア神話の世界のデュオニュソスとダイダロスの関係として解いたのが『文学におけるマニエリスム』におけるグスタフ・ルネ・ホッケである(本の紹介記事はこちら)。

今回は、ホッケがマニエリスム的態度の根底におくデュオニュソスとダイダロスの関係について読み解きながら、どのような態度が「未知の既知への変換」には必要なのか?ということを考えてみたい。
「謎めいたものを理解しようと輪郭をつかもうとしても、不定形なそれはするりと逃げていく」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 08:43| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月11日

発見、メタモルフォーゼ、そして、不一致の一致

新たな理解が生まれるのを育むのは、すでに理解していることの背景にある枠組みである。
そんなことを前回の「理解を妨げるもの」という記事では書いた。
そして、それは新しい価値を創出するという意味でのイノベーションが生まれるのを阻害する要因でもあると。


フランス・アルルにあるレアチュー美術館での展示。
新古典主義の画家ジャック・レアチューのコレクションを元にしたレアチュー美術館のこの展示は、
レアチュー自身が古典的な均整のとれた人体像を描くのに、古代の彫刻の断片などを収集したことを示すものだが、
この展示に続けて、現代的な医学で扱われる人体をモティーフにした現代アート作品が置かれた瞬間、
科学的な身体の扱いと芸術家による人の体への関心がまったくひとつながりにつながる衝撃を感じる。
この日常的にはつながっていないモノ同士をつなぐ発見が今回の記事の主題である


実際、新たな価値の創出をめざして活動する企業内の取り組みでも、その目的とは真反対のことが起こりがちだ。
イノベーション創出のお作法に則って、エスノグラフィーなどのデザインリサーチでいろいろ情報を集めたり、オープンに多様な人を集めてのアイデアソンなどで数多くのアイデアを集めても、その後の統合作業がまったく新たな価値の種を見つけだそうとする発見の姿勢とは真逆のことが行われる。

どういうことが起こりがちかといえば、とにかく集めた情報、アイデアをすべて後生大事に積み上げ式でそこから何かを生みだそうとしてしまうのだ。
KJ法とは名ばかりの、ただの情報整理で出てきたアイデアを既存の枠組みのなかに押し込めるようなカテゴライズをしてしまう。当たり前だが、その作業により、本来、個々の情報やアイデアがもっていたかもしれない、個性的で未知のものであるような価値の種はすべて既存の枠組みによる理解で削ぎ落とされ、その後はそのまったく新しさを書いたカテゴリーの見出し語により、せっかく集めた情報もアイデアも扱われることになるのだから、そこから新しい価値が生まれてくる可能性は完全に絶たれてしまう。
そうなれば、どれも本質的な魅力を失ってしまっているから、議論はつまらぬ些細なディテールについてのダメ出しばかりのものとなり、そこにクリエイティブな思考は働かなくなってしまう。

“〈発見〉は〈証明〉に先行する”。

そう、書くのは前に「考えるための道具の修辞学」という記事でも紹介した『形象の力』の著者エルネスト・グラッシである。
なのに、発見こそが求められるであろう、新しい価値の創造の活動において、正しいものをひとつひとつ丁寧に検証しつつ積み上げていけば新たなものを作り出せるといった一昔前の証明的な思考態度がいまなおはびこってしまっている。

そんな思いもあり、今回は自分でも最近「発見とはどうやって起こるのだろうか?」と気になっている〈発見〉をテーマにすこし書いてみようと思う。

「発見、メタモルフォーゼ、そして、不一致の一致」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 14:32| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月08日

理解を妨げるもの

何かを新しく理解するというのはむずかしい。
目の前に理解すべき新しいものが提示されたり、新しい情報を耳にしたりすれば、新たな理解を獲得できるというものではない。見たことがないものはそれが何かを理解できないことが多いし、聞いたことのない話は理解がむずかしくて、理解していないものに関する情報はいくら提供されても理解につながるわけではない。

それは何も僕らのような人に限ったことではない。
歴史に名を残しているような科学者であっても、例外ではない。


パリの国立自然史博物館の「進化の大ギャラリー」
ルネサンス期にはじまる博物学の分野での蒐集文化は18世紀には現在のような博物館へと発展する


例えば、16世紀のイタリア・ボローニャで活躍したウリッセ・アルドロヴァンディという著名な博物学者もそうだ。
アルドロヴァンディについては「秘密の動物誌/ジョアン・フォンクベルタ&ペレ・フォルミゲーラ」という記事でも紹介したが、イタリア各地に植物を中心とした採集旅行を行い、4000を超える植物標本を残したり、それを16巻からなるカタログ化して残したり、医学・薬学の実験のための植物園などを開設したりといった博物学の歴史に大きな貢献を残したことで知られる。

そんな人でも、その功績により理解の深まりという結果を得られたかというと、そうではなかったりする。
アルドロヴァンディを主人公の一人として16世紀、17世紀のイタリア博物学の歴史を研究した『自然の占有』の著者であるポーラ・フィンドレンはこう書いている。
実際に博物学の形成に多大な貢献をしたにもかかわらず、アルドロヴァンディは結局のところ、新たなアリストテレス的カテゴリーの中に世界の全被造物を包摂することはできなかったし、プリニウスの『博物誌』を完成させようとして計画された事象-蒐集のプロセスを最後まで成し遂げることもできなかった。自然の事物の量はたしかに増大したが、理解の質はより深まったであろうか。
ポーラ・フィンドレン『自然の占有』

数多くの採集活動、それを元にした分類、行った数々の実験により、認識している情報の量は確かに増えた。けれど、それがアリストテレスやプリニウスなどの古代ギリシアやローマの博物学の系譜に新たな理解を付け加えることになったか?という観点からみると、疑問であることを指摘するのがフィンドレンである。

では、なぜ、アルドロヴァンディはそれほどまでに数多くの蒐集、実験を行いながらも、新たな理解の獲得に至らなかったのか?
そこに「なぜ理解はむずかしいのか?」を考えるヒントがあるように思う。

「理解を妨げるもの」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:43| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする