2017年01月28日

考えるための道具の修辞学

どのように考えるかは、どんなツールを使って考えるか?に大きく依存する。

たとえば、普段の仕事で、何らかの提案資料やプレゼンテーション資料をまとめる際も、いきなりパワーポイントやキーノートのようなプレゼンテーションツールを使ってその内容を考えるのか、そうではなく、最初はテキストエディターで伝える内容を文章で書きだす作業をしたあと、プレゼンテーションに落とし込んでいくかで、単に作業効率だけでなく、考えることの内容自体が実は大きく異なるということに気づいているだろうか。
見映えという面までいっしょに作りこむことになるプレゼンテーションツールだと見映えのフォーマットにどうしても思考は制限されるが、文章のみで考える場合、そのフォーマットの制約を受けずに思考が可能になる。

紙の上などで何かを考える場合でも似たようなことがある。文章のみで考えるか、図を描きながら考えるのか。KJ法で図解化と文章化の段階が分かれているのも、そもそも、図で考えられることと文章で考えられることに差があるからだ。
いうまでもなく文章もツール、図もツールである。
職人が道具を選び、時には自分自身で道具を作るように、僕らは思考の際にどんなツールを使うか?ということにもうすこし意識的であってよいのだろう。


パリの街のコンコルド広場にたつオベリスク。
古代エジプト期に多く建造された記念碑としてのオベリスクに記されたヒエログリフは、
ヨーロッパでは長く、神的な秘密を記述した文字として考えられていた


さて、そんな話のつながりでマクルーハンが最後の著書『メディアの法則』でこんな文章を紹介したい。
人工物はすべて人間が発したもの、外化したものであり、そうだとすれば、言語学的・修辞学的な存在である。
マーシャル・マクルーハン『メディアの法則』

言語、特に、話し言葉は人間にとってはきわめて原初的なツールだといえる。その言葉と同様にほかの人工物もまた言語的だというマクルーハンの指摘が、最初に書いた「どのように考えるかは、どんなツールを使って考えるか?に大きく依存する」という話につながってくるのは容易に想像してもらえるのではないか。

今回は、ずっと言葉にしようしようと思って、できていなかった、そのあたりの話をついに書いてみようと思う。

「考えるための道具の修辞学」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 13:06| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする