考えるための道具の修辞学

どのように考えるかは、どんなツールを使って考えるか?に大きく依存する。 たとえば、普段の仕事で、何らかの提案資料やプレゼンテーション資料をまとめる際も、いきなりパワーポイントやキーノートのようなプレゼンテーションツールを使ってその内容を考えるのか、そうではなく、最初はテキストエディターで伝える内容を文章で書きだす作業をしたあと、プレゼンテーションに落とし込んでいくかで、単に作業効率だけでなく、考えることの内容自体が実は大きく異なるということに気づいているだろうか。 見映えという面までいっしょに作りこむことになるプレゼンテーションツールだと見映えのフォーマットにどうしても思考は制限されるが、文章のみで考える場合、そのフォーマットの制約を受けずに思考が可能になる。 紙の上などで何かを考える場合でも似たようなことがある。文章のみで考えるか、図を描きながら考えるのか。KJ法で図解化と文章化の段階が分かれているのも、そもそも、図で考えられることと文章で考えられることに差があるからだ。 いうまでもなく文章もツール、図もツールである。 職人が道具を選び、時には自分自身で道具を作るように、僕らは思考の際にどんなツールを使うか?ということにもうすこし意識的であってよいのだろう。 パリの街のコンコルド広場にたつオベリスク。 古代エジプト期に多く建造された記念碑としてのオベリスクに記されたヒエログリフは、 ヨーロッパでは長く、神的な秘密を記述した文字として考えられていた さて、そん…

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