2017年01月20日

アナモルフォーズ/ユルジス・バルトルシャイティス

1637年、ルネ・デカルトは公刊した『方法序説』で自身の機械論的世界観の一部をおそるおそる明らかにしている。その著作では「思考をもたず、言葉をもたない動物は機械にすぎない」という動物機械説を含む、デカルトの機械論的な世界観が展開されている。



デカルトは、有機体の肉体を自動機械としてみることで、こう説明している。
動物一個体の肉体中にあまた蝟集(いしゅう)し輻輳(ふくそう)するところの骨、筋肉、神経、動脈、静脈その他悉皆の部分に比べるとほんの僅かと言わるべき数の部分品を用いて、人間の匠みがいかに多種多様なオートマータ即ち自動機械をつくり上げることができるものかを弁(わきま)え知り、この肉体をしも一個の機械とみなしているような人々の目には、このことは全然奇異には映るまい。
ルネ・デカルト『方法序説』

このデカルトの機械論的発想は、人間の身体にも及ぶ。ただし、人間は世界を機械的に感知する。ただ、それは世界をそのまま見るのではなく、すこしズレたイリュージョンとして見るのだとデカルトは考えた。

そんなデカルトが懇意にしていたミニモ会士でプラトン主義者であったマラン・メルセンヌ師を介して、同じミニモ会修道士でメルセンヌの弟子であり、数学者であったジャン=フランソワ・ニスロンにもこの機械論は共有されていた。
そのニスロンの1638年の著作に『奇妙な遠近法』がある。デカルトの『方法序説』の翌年の公刊であり、1646年のラテン語版は『光学魔術』と改題されている。副題は「奇妙な遠近法、或いは驚異の効果の人工魔術」である。ニスロンはこの魔術の効果を「人間の芸術と巧智が到達しうる最も美しく、最も素晴らしいもの」と讃える。
ニスロンはその論のなかでデカルト同様に「自動機械(オートマータ)」に触れている。「自然がうんだものででもあるかのように口をきくアルベルトゥス・マグヌス作の青銅頭像、学あるポエティウスの玄妙至極のわざは青銅の蛇にしゅうしゅう啼かせ、青銅の小鳥にさえずらせた」と自動機械への関心を示す。

そのニスロンの関心の中心にあるのが、自動機械としての遠近法であった、というのが、今回紹介する『アナモルフォーズ』の著者ユルジス・バルトルシャイティスである。
機功を匿(かく)した精密機械の一種として、事物を遠ざけたり近づけたり形態をイリュージョンの宇宙の中で生き生きと動かしてみせたりする遠近法も、同じような範疇に属するべきものであった。
ユルジス・バルトルシャイティス『アナモルフォーズ』

ここでデカルトの話に戻る。

デカルトが『方法序説』で自身の機械論的世界観を主張する際、「おそるおそる」だったのは、1633年にガリレオ・ガリレイが異端審問を受けていたからだ。それをきっかけにデカルトは予定していた『世界論』の公刊を断念した。その一部をあらためて略述したのが『方法序説』であり、問題になりそうな地動説に関する論考は控え、『屈折光学』『気象学』『幾何学』などを選んで附している。
その俗に『方法序説』と呼ばれるデカルトの著書の原題は『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論』である。つまり「序説」および「方法の試論」の2つからなる。この後者の「方法の試論」にあたるものに含まれるのが『屈折光学』『気象学』『幾何学』であり、その『屈折光学』で展開されるのはニスロンが『奇妙な遠近法』で記したのと同様、遠近法とその光学魔術的側面なのである。デカルトはそこに「見かけのウソ」をみた。彼の懐疑論の根幹の1つがここにあるといって良い。

では、デカルトが17世紀の半ばにみた「見かけのウソ」とはいったい何だったのだろう?
それこそが本書『アナモルフォーズ』がテーマとする、ゆがんだ画像を円筒などに投影したり角度を変えてみたりすることで正常な形が見えるようになる、遠近法の応用としての視覚表現技法である。

「アナモルフォーズ/ユルジス・バルトルシャイティス」の続き
ラベル:デカルト
posted by HIROKI tanahashi at 08:25| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする