2015年11月08日

いやしくも生について正確に伝えようとするなら病的になる他ない

本を読んでいて興奮することの1つは、いままさに読んでいる本の言葉の1つによって、いろんな別の本に書かれた内容がつながり、なるほど!と思える1つのストーリーが自分のなかで編集的につくられることだったりします。



昨日もバーバラ・M. スタフォードの『ボディ・クリティシズム―啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』を読んでいて、以下の一文に差し掛かったとき、別の本に書かれたさまざまなことが僕のなかでつながりました。

苦悶する肉体の許されぬものと官能ばかりを描く20世紀アイルランドの画家、フランシス・ベーコン(1909-1992)が、自らのおぞましい画像の数々を説明して、こう言っている。「いやしくも生について正確に伝えようとするなら病的になる他ない」、と。
バーバラ・M. スタフォード『ボディ・クリティシズム』

スタフォードのこの本は、そのサブタイトルどおり、18世紀の医学とアートの深い共犯関係を明らかにしながら、その過程での「イメージ化」に際しての新古典主義的なものとロマン主義的なものの対立に幾度となく言及しています。

その1つの言及が先の引用であり、時代的には2世紀ほど下った時代のベーコンの言葉を引きつつ、ロマン主義的なるものが何故、病的なるものや汚れたもの、そして、暴力や死などに美を認めるのかという点について言及しはじめるのですが、この文のすぐ先には「生とは気味悪いしるし付け、まず性交、そして暴力的死であるに他ならない」といったことも書かれていて、このあたりから僕はまさに1つ前の記事で紹介したマリオ・プラーツがまさに19世紀のロマン主義から象徴主義げと連なる芸術の病的傾向を論じた『肉体と死と悪魔―ロマンティック・アゴニー』のことを思い出したり、こちらもしばらく前に紹介しているサイモン・シャーマの『レンブラントの目』も同時に思い出したりしたわけですが、前者はともかく、後者の17世紀の画家レンブラントを論じた本がなぜ、先の引用とつながるのかはこの時点ではよくわからないと思うのでそれについてもこのあと説明しつつ、僕が感じたことを今回の記事では記していきたいと思います。

「いやしくも生について正確に伝えようとするなら病的になる他ない」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 18:08| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする