2014年11月29日

人間にとって「創造」という概念自体、発明品だったのかも…

前回の「デザインという思考の型から逃れる術があるのか?」という記事のなかでも告知していたイベント「デザインの深い森」。その第3回の講演を昨夜開催しました。
ウロボロスの洞窟と光の魔術師」と題して行った講演は、keynoteのスライドにして105枚、しゃべった時間はあんまりはっきり憶えてないけど、2時間近かったんじゃないか、と。もちろん、最長講演時間の更新。質疑応答のときは声が出なくなりました。

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▲講演で使用したスライドのサムネイル(クリックして拡大すればもうすこし見える)

それこそ2時間も話したので、その内容を要約するのは、むずかしいんですが、
  • 17世紀中頃を境にした「見る」ことと「思考する」ことの関係の歴史的な変遷だとか
  • 似たような観点で「照らす」ことと「知る」ことの関係って?みたいなこととか
  • そんな内容をレンブラントとルーベンスという2人の画家を、偶像破壊のプロテスタントと五感全体を使ってキリスト教を体感させようとしたカトリックという視点で対置してみたり、
  • ルネサンス期のネオプラトニズムとヘルメス主義的魔術の融合がいかに戦火の時代の文化や思想、芸術に強い影響を与えたかだとか、
  • その流れのなかであらわれた薔薇十字団という秘密結社の盛衰が後に、ユニバーサル言語という観点から、いかにあいまいなものを消し去り、絵をロゴスに従属させるものに変えていったか、など。

そんなことを、のらりくらりと話してみましたわけです。
「人間にとって「創造」という概念自体、発明品だったのかも…」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 01:20| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月20日

デザインという思考の型から逃れる術があるのか?

最近、デザインとは「思考の型そのものである」と考えるようにしています。
しかも、その思考の型は決して特別なものではなく、むしろ、現代に生きる僕たちはデザインという思考の型以外で考えられなくなっている。僕はそう考えるようになりました。

昨今、「デザイン」という概念の重要性が増し、誰もがその力を身につけようと方法論や事例をかき集める風潮がみられますが、この僕の観点からいえば、むしろ僕らはデザインという型を使わずに考えることができないのだから、本当に願うべきはデザイン力を身につけることではなく、いかにしてデザインという思考の型に無意識のうちに縛られている自分を自覚するか、デザインという思考を本当の意味で認識対象にするかということではないかと思うのです。

僕らはみな、デザイン力がないのではなく、むしろ、デザインという力を使ってしか考えることができないのだ、と。


▲イベント「デザインの深い森」の第3回の内容を構想中

そんな風に考えるようになったのは、いま僕は千葉工業大学の山崎先生といっしょに月1でやっているトークイベント「デザインの深い森」の企画を考えはじめたときでした。第1回目で僕が話した内容は、1つ前の記事でもプレゼンスライド付きで紹介しています(ちなみに次回以降はスライド公開予定はないので、内容に興味のある方はぜひ参加してくださいね)。

このイベントは全6回のシリーズで僕と山崎先生が交互に講師役をつとめる形で進めているんですが、イベントを企画したきっかけは、昨今のデザインをめぐる言説の多くが方法論や事例紹介みたいなものに偏りがちだけど、本当の意味でよいデザインをするために必要な「デザインの体幹」みたいなものって何だろうね?ということを考えはじめたところにあります。

デザインの体幹と表現したデザインの基礎みたいなことを山崎先生とディスカッションしたりする中で、僕のなかで思い浮かんだことが先に書いたような「僕らはみな、デザインという力を使ってしか考えることができないのだ」という結論でした。つまり、基礎は何か?を考える際、ある特定の人だけがもっている力を想定するのが間違いで、むしろ誰もがみなその方法で思考しているために却って、それが方法であることが認識されない、その隠れた方法こそが、デザインというものの核だろうと思い当たったのです。

「デザインという思考の型から逃れる術があるのか?」の続き
ラベル:思考
posted by HIROKI tanahashi at 23:11| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする