2017年11月19日

エロティシズムの歴史:呪われた部分 普遍経済論の試み 第2巻/ジョルジュ・バタイユ

以前に紹介した本、『形象の力』の冒頭、エルネスト・グラッシはこんな謎めいた言葉を綴っている。
人間であるぼくは火によって原生林の不気味さを破壊し、人間の場所を作り出すが、それは人間の実現した超越を享け合うゆえに、根源的に神聖な場所となる。これをぼくに許したのは、自然自身であり、ぼくは精神の、知の奇蹟の前に佇んでいるのだ。自然がぼくを欺瞞的に釈放し、ぼくは自然から身を遠ざけ、ぼくは想像もできない距離を闊歩し、歴史がぼくを介して自然を突っ切り始め、ふいにぼくは気がつくのである、目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいることか。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

ここで綴られていることは、今回、紹介する『エロティシズムの歴史』でジョルジュ・バタイユが「人間とは、自然を否定する動物である」というのと同じだ。

エロティシズムの歴史


しかし、人間がどんなに自然を否定しようと、グラッシも気づいているように「目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいる」。
そして、人間が一度は切り捨て、闇に葬り去ったはずの、自然との紐帯が何度も人間のもとに闇のなかから回帰してくるからこそ、本書の主題であるエロティシズムも成立する。

エロティシズムとは一言でいえば、自然あるいは獣性と見えないほどの糸でつながっていることに気づいた人間の拒絶と欲望の入り混じった両義的な有り様だといえるだろう。
「エロティシズムの歴史:呪われた部分 普遍経済論の試み 第2巻/ジョルジュ・バタイユ」の続き
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征服され、欲望を感じて〈私〉は融解する

難解で重苦しく、絶望的な暗さを響かせもする言葉に最近は惹かれたりする。
あまりに明快で、わかりやすく、それゆえに何も告げていない言葉はむしろ不快すぎて目障りだ。



明るく明解で合理的すぎる思考に魅力を感じないのは普段から変わらないが、それにしても、ここ1ヶ月くらいは普段にも増して、ドロドロとした粘着性をもった腐敗したような思考の外に遺棄されたようなものに臭いに引き寄せられる傾向がある。

企図されたもの。明らかすぎる知識。
わかりやすさについては、元よりまったく魅力を感じないし、かねてから社会の毒だと思っている。
それは単に人を惑わし奴隷にする手枷足枷でしかない。そんなものを喜んで自ら引き受けようとする人たちの気が知れない。

「決断とは、最悪のものを前にして生ずるもの、超克するものの謂だ。それは勇気の核心だ。そしてそれは企ての反対物だ」とバタイユはいう。企てという明るすぎる道のみを安全に進もうとする意思。いったい、それのどこが面白いのか。一度も決断することなく、歩まずともすでにわかっている結末に向かって、なにも考えないまま進んでいく。心をドキドキさせる不安はそこにはただの1ミリもない。
バタイユは、そんな企てに、内的体験なるものを対置する。
「内的体験は行為の反対物であって、それ以上のものでもないのだ。「行為」は完全に企ての支配下にある」と。
私はどのようにしても逃げることはできず、限りない全面的衰弱のなかに投げ込まれ、私自身へと投げ捨てられ、いや、もっと悪い、私は空虚で、無関心であるだろう。だが内的体験は征服行為であり、そして、征服行為として、他者のためのものなのだ! この体験においては主体は錯乱し、客体のなかにおのれを滅ぼす。そして客体自体もまた消滅するのである。
ジョルジュ・バタイユ『内的体験』

逃げることのできない征服行為。征服行為である内的体験のなかで私は錯乱し、征服してくるドロドロとした腐敗的な得体の知れない他者のなかに崩れ、融解する。それが最初から決まったゴールに何の危険も犯さずに進む企てとは正反対なのは明らかだ。
けれど、この腐敗に征服され、自らを投げ捨てる勇気をもった内的体験への衰弱した意思こそが、実のところ、生きた心地を感じさせる唯一のもののような気がしている。

「征服され、欲望を感じて〈私〉は融解する」の続き
ラベル:バタイユ
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2017年11月04日

集団を動かすもの - システム、コンセプト、非知的なもの

人を動かすのにシステム以上に強力なもの、それは人が信じている概念(=コンセプト)であり、それを指し示す言葉なのだと思う。

だから、システムに沿って受動的に動いてもらうより、何らかの概念を理解してもらい、その概念の存在を信じて受け入れてもらったほうが人は主体的に動くようになる。その概念があまりに当たり前になって普段は意識することもないくらいに自然なものになれば、その概念に関連した行動はもはや自動的なものにすらなるだろう。



例えば、喫煙は他人の迷惑のかからない喫煙エリアで行うとか、性的指向は多様なのだから性的少数者の権利も認めるのは当然であるとか、それらはルールやシステムの問題である以上に、考え方、どのようなコンセプトをどう信じて行動する上での判断基準として用いているかという問題である。もちろん、人が信じる判断基準と現実のルールやシステムに乖離があれば、現行のルールやシステムを改編する必要があるが、その逆にルールやシステムの側から変えようとすると、一部の人には心理的な違和感が生じてしまうこともあるはずだ。

いくつか前の記事「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」で、シェイクスピアの戯曲『オセロー』の主人公が恋愛に対して初心すぎて恋愛については紋切り型の瑣末な知識しか持たなかったがゆえに、自分を憎む部下に欺かれて、愛する妻の浮気を疑い、怒りのあまり殺してしまうという痛ましい結末に至る際の、言葉=知識のもつ力の怖さについて触れていたが、それも同じことだ。浮気は裏切りであるという考えと、悪どい部下の吹きこむ偽りの言葉があまりに安易に結びついてしまい、ありもしない浮気を疑い、愛する妻の殺害へというどう考えても高いエネルギーを必要とする行動へと主人公の思考を動かしてしまう。

そういう観点からみれば、組織やコミュニティにおいても、単にルールやシステム、やり方などだけを共有しているものよりも、価値観だとか文化とかを共有しているもののほうが、組織や集団としての行動力は強くなるはずである。
強烈に価値観が共有できていれば、その組織やコミュニティがもつ力は強力なものになるだろう。
「集団を動かすもの - システム、コンセプト、非知的なもの」の続き
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2017年10月27日

知っていることより大事なこと。それは新しいことを知ることができるということ。

常々、思う。
たくさん知識をもっていることより、もっと大事なことがあるって。

もっと大事なこと。
それは新しい知識をどんどん手に入れ、自分でそれを扱えるようになる能力をもつことだ。



知らないことでも聞けば瞬く間に知っている状態に移っていける。
その力さえあれば、いま、どれだけ知識を持ってるかはそんなに関係ない。
だって、必要なときに必要なだけ一気に手に入れ、扱えるようになればいいのだから。

そう。その意味ではどんどん手に入れ、それを扱えるようになる力にはスピードがともなっている必要がある。

だったら、常日頃から知識を徐々に手入れておけばいいじゃないかって?
いつ何の知識が必要かもわからず、闇雲に知識をたくわえておくというのはあまり意味がある気がしない。

もちろん、興味がある知識を常日頃から手に入れるのはもちろん意味がある。
だって、興味があって知りたいのだから、その欲望を満たせばいい。

でも、いつ役に立つかわからない知識を勉強だからといって、詰め込むのは、義務教育の頃だけで十分ではないだろうか。
すくなくとも大人にそんな知識がいらない気がする。
そんないらない知識を学ぶ暇があったら、いますぐ必要な知識を得ることと、何より知識を必要なときに必要なだけ手に入れ、使えるようになるための土台となる理解術や思考法を身につけておいたほうがいい。
だって、いまの時代、必要な知識など、次々と変わるんだからストックしておくことなんて、ほとんど無意味だから。

「知っていることより大事なこと。それは新しいことを知ることができるということ。」の続き
ラベル:わかる 認識
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2017年10月23日

どこまで愛されているのかその限界を知りたいの

誇張するなら、限界を超えて、いまだないものを創造するほどに誇張するべきなのかもしれない。
クレオパトラ どこまで愛されているのかその限界を知りたいの。
アントニー それならば新しい天、新しい地を見つけなければなるまい。
シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』1幕1場14-17行

シーザーなきあとのローマ帝国、三頭政治をしく3人の執政官のひとりアントニーこと、マルクス・アントニウスと、エジプト・プトレマイオス朝の女王クレオパトラが、ともに恋に身を滅していく様を描いたシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』
その戯曲は、『シェイクスピアの生ける芸術』のロザリー・L・コリーに言わせると「身の程知らずの張喩」が目につく作品だという。



張喩、つまり、誇張表現。

それは先の引用でもみたとおりで、2人の間でも互いに交わされるし、2人を取り巻く人々も良い意味でも、悪い意味でも、2人のことを誇張した調子で表現する。

それゆえ、「アントニーは何をしても、「尺度を超えてしまう」かのように見える」し、クレオパトラを「我々は、彼女が礼儀に背いても、悪ふざけがすぎても、愚かな中年女でも、それでもなお魅力的であると感じさせられる」。
まこと、アントニーとクレオパトラは己れ自身について、また互いについて、誤った印象を抱いていたり創り出していたりしていたかもしれない。だが、彼らは何か別のこと、何かきわめて尊く、きわめて詩的なことを試みていたのである。等身大よりも大きいという己れの自身の確信と感覚を言葉にしようと試みること−するとそこには、ありきたりの人間が用いる表現様式よりもさらに広大な様式が求められる。

「誤った印象を抱いていたり」「創り出していたり」、つまり、ありもしないものをでっちあげているといえるのかもしれない。だが、しかし、それを一つ前の記事「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」でみた恋愛に初心なオセローがステレオタイプのありきたりの言葉に動かされ、彼の大事な恋を失う悲しみに落ちていく様を思い出すと、はるかに、このアントニーとクレオパトラは羨ましく感じられものではないだろうか。
二人はそんな並外れた幸福を得るために、「ありきたりの人間が用いる表現様式よりもさらに広大な様式」によって自らを語り、互いを語り、そして、まわりの人たちからもその誇張表現によって語られる。

誇張表現、それはある意味、ありきたりの日常という幻想を突き抜けて、真なるものに至るひとつの方法なのではないかと思えてくる。

「」の続き
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2017年10月22日

知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも

嗚呼、オセロー。何故、あなたはそんなに初心(うぶ)なのか?

シェイクスピアの『オセロー』で、主人公であるオセローは愛する妻を、悪人イアーゴーに吹き込まれた妻の姦通というデマを信じて、愛するが故に殺害してしまう。
その後、妻の姦通がまったくの嘘であったことに知って、みずからも自害するという悲劇なのだが、そもそも、主人公オセローに妻であるデズデモーナを愛を語らせ、姦通の疑いから激昂させ、そして殺人にまで至らせるのが、軍人であるオセローの恋愛に対する初心さであり、それゆえにソネットなどの恋愛詩、恋愛文学の定型そのままに行動させてしまうことだというから悲劇以外の何物でもない。



無知であること。にもかかわらず、誠実でいようとする場合、オセローのような定型=ステレオタイプの罠にはまってしまい、現実とのギャップに空回りをきたし、悲劇的な結末を誘ってしまうことは少なくない。

もちろん、それは恋愛の場合に限らない。

知識が少なければ少ないほど、自分の知識が少ないことに気付きながらそれを補う努力を怠る人ほど、ステレオタイプの型に自らの判断を預けてしまい、さも自分で考え行動しているつもりながら、ほとんどを型に委ねてしまう。そして、多くの型がそれそのものだけでは機能するようできてはいないので、結局、何事もうまくいかず、より面倒な状況に追いやられる。この流れから抜け出すためには、自ら知識をつけ、「知識を元に自ら考える」という編集行為にのりだす必要がある。だが、これをやらない人は多くて、それで不幸な状況から抜け出せずに不満を並べつづけるしかなくなってしまう。

無知であること、定型を迂闊にも信じきってしまうことはその意味で実はおそろしいことなのだが、多くの人はそれに気づかない。
まさに定型っぽい筋書きを書けば、こんな流れが生じる。
  • はじめてのことに動揺する
  • どうしていいかわからないから、型に自分を当てはめようとする
  • 型は必ずしも現実の問題にうまく機能しないから、そのギャップにますます自分を見失う
  • ギャップがあるゆえに周囲の反応は自分の思ったものとは異なり、それゆえに誠実に接してくれる周りのことが信じられなくなる
  • 周囲への不信が状況を必要以上に悪いものだという判断をこれまた定型に従って信じてしまい、悲劇へと進む選択をしはじめる
  • どんどん苦しくなって、何かの拍子にうまくそのループから抜け出せない場合、悲劇的な結果が待ち受ける

妻デズデモーナを前にしたオセローの心の動きもまさにこんな流れとして定型化できる。

「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」の続き
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2017年10月21日

グーテンベルクの銀河系/マーシャル・マクルーハン

最近、ちょっと調子が悪い。いや、体調ではない。
頭のなかをすっきりさせておくことがむずかしいと感じるのだ。
「保守的なものへの対処法」。
それがここ最近ずっと頭を悩ませてる問題だと思う。
この週末直前、その悩みは結構マックスになってて苦しくなってきてストレスフルなので、何かにすがりつこうと思って、思いついたのがマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』

グーテンベルクの銀河系


有名な『メディア論』が書かれたのが1964年。その2年前の1962年に書かれたのが、この『グーテンベルクの銀河系』だが、僕は整理されすぎた『メディア論』より、タイトル通りの銀河のように様々なキラキラしたテキストがパッチワークされたこっちのほうが断然好き。

もう何年前に読んだかわからないくらい、読んでから時間が経ってると思って調べてみると、マクルーハン生誕100周年の2011年に読んだようだ。つまり6年くらい前に読んだ本について、いまさらながら、この本の書評を書くことで、保守的なものにいかに対処すればよいかを言葉にしたいと思って、あらためて手にとってみた。

そしたら、その序章のはじめにこんな一文を発見。
エリザベス朝のひとびとは、中世的な共同体的経験と近代的な個人主義との間で、からくも平衡をとりながら生活していた。他方、われわれ現代人は、個人主義が時代遅れのものとなり、共同体的相互依存こそ不可欠なものに思われる電気テクノロジーに遭遇しているのであり、われわれが対面している状況の型はエリザベス朝人のそれとはまさに逆の関係にある。
マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』

マクルーハンがこの本を書いた当時の50年以上前、時代は16世紀後半から17世紀初頭のエリザベス朝期の変化とまさに逆の方向への変化を遂げようとしていた。

エリザベス朝の時代というのは、いわゆるイギリス・ルネサンス期であって、フランシス・ベーコンやシェイクスピアが生きた時代である。いまだ1660年に設立される数学者・科学者たちの集団である王立協会=ロイヤル・ソサエティーは生まれていないが、そうした自然科学の隆盛がはじまる前夜ではあった。その意味で、近代的な個人主義に向かう流れは残りつつも、いまだ中世的な共同体的経験は街で生きる人々の生活には色濃く残っていたわけで、そのあたりの中世と近代が混淆する様を描いたのがシェイクスピアだったといえる(「シェイクスピア・カーニヴァル/ヤン・コット」参照)。

その逆の変化が生じ始めていたのがマクルーハンが生きた1960年代というわけだ。個人主義からふたたび共同体的経験へとシフトしていく流れのなかに、インターネットの誕生から創出という時代の流れはある。
けれど、当時、こうした明らかな時代の変化を受け入れた人もいれば、保守的に変化を拒んで個人主義にすがりつく人もいただろう。

そんな人への強烈なパンチとして放たれたこの本は、しかし、実は保守的であることも進歩的であることも、相対的であり、むしろ、ふたつの状態をパラレルに思考することの必要性を示したものだったと思う。
そんな一冊として認識している『グーテンベルクの銀河系』だからこそ、いまあらためて、この本の書評に取り掛かってみようと思ったのだ。

「」の続き
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2017年10月18日

変化には2種類ある、だから、区別して対処したい

変化には2種類ある。
変化というか、動きといったほうがいいのかもしれない。



1つは、モノや人があちらからこちらに移動したりすることによる変化である。
トランスフォーマーの変形のようなものも同じだ。場所の移動により形態は変化しても、実はそれぞれの要素は何も変わっていないから、理論的には元の状態に戻すこともできる。
その意味では、建物を建てたり、服を作ったりというのも、この種の変化といってよいのかもしれない。部品を加工しちゃうから完全には元に戻せないということはあったとしても、これは可逆的な変化といってよい。

そして、もう1つの変化は、メタオルフォーゼ的な変化。変態だ。
サナギが蝶になったり、子供が大人になったり、蕾ができ花が咲き実になるような変化。これは不可逆的な変化で、元に戻すことはできない。
だから、イノベーションとかもこっちに入るんだと思う。逆に、新しい商品とかが出たとしても、それがイノベーティブなものでなかったとしたら、さっきのほうの可逆的な変化だ。

この2つの動きというか、変化はちゃんと区別をつけて理解したほうがいいと思った。

何度か読もうと思って手に取り、そのたびに挫折してきたフランシス・ベーコンの『ノヴム・オルガヌム(新機関)』を、いまようやく読み進めながら、そう思ったのだ。

「変化には2種類ある、だから、区別して対処したい」の続き
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2017年10月10日

青い花/ノヴァーリス

世界は夢。夢は世界。
世界は夢となり、夢はまた世界と変じ、
とうに起こったはずのものが、
今かなたからやってくる。
想像がはじめて自在にはばたき、
思うがままに糸を織り、
ここかしこヴェールをかけ帳を掲げ、
やがで魔法のもやに消えうせる。
ノヴァーリス『青い花』

18世紀末ドイツの初期ロマン主義の詩人ノヴァーリスによる未完の小説『青い花』
先に読んだ『サイスの弟子たち』がとても気にいって、ノヴァーリスのことに夢中になり、この『青い花』を手に取ったのはおとといのこと。
ひさしぶりに本を読んで、気持ちが落ち着かない状態にさせられたのだが、そういう意味でとても魅力に満ちた一冊だ。未完なのが、なんとも惜しいが、未完でもなお読む価値がある。

『青い花』は、原題を『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』といい、主人公の名をそのままタイトルにした作品だが、引用した作品中の詩の一節同様に、どこまでが主人公が生きる現実なのか、どこからが他の登場人物が語る物語のなか、あるいは、夢の世界の話なのかが読んでいてわからなくなる作品だ。



しかし、この夢を詩と置き換えて、「世界は詩となり、詩はまた世界と変じ」と読み替えると、この作品における詩というもの、あるいは詩人というものの役割、ノヴァーリスが詩や詩人というものをどう見ているかが感じとれるようになる。
詩人が自分で奇跡におどろいているようでは、とても奇跡を行なうことはできない。
ノヴァーリス『青い花』

と語るのは、ハインリヒが母に連れられて辿り着いた母の故郷であるアウクスブルクで出会った詩の師となるクリングゾールで、ここではあらかじめ「詩人は奇跡を行う者」ということが前提とされている。

なるほど、この作品(小説?)の中では、詩人がうたった詩の内容がそのまま現実になるシーンが何度となく描かれる。
例えば、旅の道連れの商人が語るアトランティスの物語では、王女との結婚の許しを請う若者のうたがその後の父王の許しに即座につながるように。

「青い花/ノヴァーリス」の続き
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2017年10月08日

分かっていることを新たに分かり直す

デザインリサーチ。デザイン思考などのアプローチで用いられる、フィールドワークやデプスインタビュー、デスクトップリサーチなどの様々な調査方法を組み合わせて、デザインの課題を定義するために用いる思考の方法。

そのデザインリサーチをしていると往々にして起こる問題がある。
それはリサーチに関わっていない外部から、リサーチの結果をみて「それはリサーチをしなくてもわかった普通のことでないか」という反応があがるということである。



問題の要因は2つあると思う。
  1. デザインリサーチをしたことがない人には、デザインリサーチによって何が変わったかがそもそもわかりにくい
  2. デザインリサーチをした側が、そうした前提に立って、やってない人に自分たちが得たものを伝える努力を怠ってしまう(もしくは、その前提自体の認識がない)

「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」
量子力学の研究で知られる理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーの言葉だ。

デザインリサーチがリサーチを行う際の立場もこれと似ている。
デザインリサーチの対象となるのは「誰もが見ている」日常的なものであることが多い。それをわざわざリサーチの対象にしようというのだから、「まだ誰も見ていないものを見る」の目的であるはずがなく、「誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考える」ことのほうが目的になるのは当然である。

「分かっていることを新たに分かり直す」の続き
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2017年10月07日

わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ

ちょっとびっくりしている。
びっくりして戸惑っている。
実際には何も変わっていなくても、見方が違うだけで現実がこんなに違って見えるということに。



「わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ」

ノヴァーリスの未完の小説『青い花』で、主人公の青年ハインリヒにせがまれて父親が母親と結婚しようと決断するにいたった夢の話をする中で、夢の中で出会った老人の語る話を聞いて、父親が感じたことを述べたセリフだが、まさに、今日僕自身が感じたこともこれに近い感じのものだ。

きっかけは、最近、会社での役割が変わったことだ。変わったとはいえ、正直、今日まではあまり実感を感じていなかった気がする。
それでも、役割が変われば、やることもすこしずつは変化していくもので、そうした変化をあらためて、今日は休みだということもあり、もろもろの作業をしつつ、頭のなかの整理をしはじめたら「まるで新しい世界に上陸するような気が」するくらい、まだ何も変わっていない状況がまるで違って見えはじめたことにびっくりし、戸惑ったわけだ。

「わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ」の続き
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2017年10月06日

学びの解放

言葉が錯綜して解読困難だからといって、それをあなどり投げ捨ててしまうような無思慮な人間にはなりたくない、と思う。
芸術家の技芸とは、自分の道具をあらゆるものにあてがい、世界を自分流に写しとる能力にほかならない。だから、芸術家の世界の原理は実践となり、かれの世界はかれの芸術となるのだ。ここでもまた、自然は、新たな壮麗さを帯びて眼に見える姿をとるが、ただ無思慮な人間だけは、この解読困難な奇妙に錯綜した言葉をあなどって投げ捨ててしまう。

研究=リサーチ精神に欠けた人には、自然および自分自身の秘密の発見をともなう創造としての芸術家の技芸が宿るはずもない。



前回、紹介した『オルフェウスの声』のなかでエリザベス・シューエルはフランシス・ベーコンを参照しながら、こう書いている。
「技芸は自然の一部であり、受身のアナロジーでなく能動的な操作の場、まさしく自然が言葉を語り出ることができる場、ということになるだろう」と。

「学びの解放」の続き
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2017年10月02日

オルフェウスの声/エリザベス・シューエル

先日、金沢工業大学で、アイザック・ニュートンの『プリンキピア』を題材にした「ニュートンは何を考え、何を語ったか」という講義を受講してきた。同学での公開講座「原著から本質を学ぶ科学講座」の第1回目という位置付けで、実際に同学のライブラリーには、2億円の価値があるという『プリンキピア』の初版本が蔵書されており、その実物も見学できた。


金沢工業大学のライブラリーに所蔵されている『プリンキピア』の2冊の異なる初版本


『プリンキピア』の初版が発行されたのは1687年だが、1642年生まれのニュートンは、すでに1665年には『プリンキピア』で論じられている運動の3法則および万有引力の法則を発見していたと言われている。
『プリンキピア』とは、いわば略称で、ラテン語原典のタイトルは”Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica”、日本語では「自然哲学の数学的諸原理」と訳されることが多い。

だが、数学的諸原理というタイトルの印象とは異なり、この書にはいわゆる数式はほとんど登場しない(と、講義を担当してくれた山口敦史教授が教えてくれた)。当時はまだ幾何学こそが正統な数学であり、代数はまだ発展途上のものと考えられていたからだという。
たしかに、近代的な代数的記法を導入したことで知られる、ルネ・デカルトの『幾何学 (La Géométrie)』は1637年の出版だ。ニュートンの同時代の数学者で、ニュートンとは微積分の方法をたがいに独立して同時に発見したことで知られるライプニッツも行列式を考案したり、積分記号の記法の発明などをしているのだから、たしかにそうした記述による数学的思考そのものがまだ一般的ではなかったのだろう。


ラテン語で書かれた『プリンキピア』の多くのページはこのように文字中心で記述。
時に幾何学的な図による説明が入る。


だから、ニュートンは『プリンキピア』全編にわたって、ほとんど数式を用いず、幾何学的な図だけを時には用いながら、言葉による証明を行っている。
山口教授はこの本を「とても読みにくい」と評していて「これでもか、これでもかと、証明&説明」が行なわれていると教えてくれたが、これもきっと代数的に数式を普通に用いる思考ではなく、幾何学的なボリューム感をもって触覚的な数を相手にする思考であったからだろう。
マクルーハンは『メディア論』の中で「文字がわれわれのもっとも中性的で客観的な意味を拡張し分離したものであるように、数字はわれわれのもっとも親密で相関的な活動、つまり、触感を拡張し分離したものである」と書いているが、この数字のもつ触感的なものが代理によって消されることのない代数以前の数学である幾何学的思考においては、親密で相関的なものがまとわりつくがゆえに、代数的な思考のようなすっきりとした証明&説明とは異なる煩わしさがあるのではないかと思う。

「オルフェウスの声/エリザベス・シューエル」の続き
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2017年09月29日

自然研究者が蒐集し、まとまりとなるよう並べて見せたものを、詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品として小さな自然を形作る

集めるという行為、そして、集めたものを眺めみるという行為のうちに、頭のなかにひらめき、ざわめくアイデアをちゃんと言葉なり形になりにするという手間をとるかどうかというのは、何かを創造する力があるかないかという観点からみた場合、とても大きな差なのだろうと感じる。

そして、同時に、その言葉なり形なりにすることを愉しむことができるかどうか、言葉なり形なりにする際に、安易にありきたりの言葉や形なりに無理やり押し込んでしまうのではなく、自ら得たはずの細かな感じ方そのものをきれいに繊細に織り上げるように言葉を紡ぎ、形を得られるかも、また、そこから創造が生じるかの分かれ道になる。



創造するということと、情報と頭の使い方について、あらためて気づくことが多かった1週間だった。

「自然研究者が蒐集し、まとまりとなるよう並べて見せたものを、詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品として小さな自然を形作る」の続き
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2017年09月25日

編集的思考でみずから解釈する、詩人のように

編集的に思考できる力がいま必要だ。
世の中にはあまりに多様な情報がありあまりすぎているから。
ありあまる情報を相手にする場合、単に情報を取捨選択すればよいわけではない。
単純に取捨選択などしようとすれば、一見、魅力的に感じることばの響きに騙され、考えもなく、それに引き寄せられてしまう。前回の記事(「倫理が現実を茶番にする」)で、何が許され、何が批難されるべきなのかを判断する倫理自体がきわめて恣意的であることを指摘したばかりだ。倫理がそれほど危うい状態なのに、誰かが放った情報をただ勘にまかせて、選びとってしまうのはあまりにきびしい。


レンヌ美術館の「驚異の部屋」の展示棚。無数の奇異な品々は奇異さというキーで編集的に集められたもの


いま必要なのは、多様な情報をいったん自分自身で編集しなおしてみて、自分なりの理解を組み立てるスキルであり、センスだろう。
逆にいえば、状況を自分でしっかり考えとらえられないセンスの欠如は、自らの思考と編集的な作業をうまく絡ませて、言語化する作業を怠ることに起因する。

そんな考えが浮かんだのは、ロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』の、こんな一説にふれたときだ。コリーはシェイクスピアの『ソネット集』からソネット21番の一部を引きながら、こう語る。
"ああ、愛において真実であるわたしは、詩作においても真実でありたい、
これが本当のこと、私の恋人は人の子の誰にも負けず美しいが
天空に据えられたあの黄金の蝋燭ほど輝いてはいない。
だから空っぽの美辞麗句が好きな者はなんとでも言えばよい。
私は売る気がないのだから褒めそやしたりしないのだ。"

もちろん、シドニー的な仕掛けは明らかだ。詩人は、己れがここで否定している、まさにその言語を用いて友人を讃美してきた。だが、我々は、そうした慣習的な美辞麗句がいかに空疎になりうるかを詩人が承知していたことがわかると、「これが本当のこと」というほうに軍配をあげたくなる。

通常、ソネットが愛する人を美辞麗句で包みこむところを、シェイクスピアはあえてその形式を逆手にとって、美辞麗句で飾り立てることを拒む。これは「真実でありたい」がゆえに本当に真実を語っているということではない。ソネットとは恋人を美辞麗句で飾るものであるという形式をあらためて前景化すること自体が、真実そのものを宙づりにしている。

量子力学の基本方程式を明らかにしたことで知られる理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーの言葉を思いだす。
大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ。

この「誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考える」ためには、科学者の視点というよりも、実は、編集的な視点が必要だ。特に、詩人的な視点での編集が。

「編集的思考でみずから解釈する、詩人のように」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:25| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする