2017年10月22日

知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも

嗚呼、オセロー。何故、あなたはそんなに初心(うぶ)なのか?

シェイクスピアの『オセロー』で、主人公であるオセローは愛する妻を、悪人イアーゴーに吹き込まれた妻の姦通というデマを信じて、愛するが故に殺害してしまう。
その後、妻の姦通がまったくの嘘であったことに知って、みずからも自害するという悲劇なのだが、そもそも、主人公オセローに妻であるデズデモーナを愛を語らせ、姦通の疑いから激昂させ、そして殺人にまで至らせるのが、軍人であるオセローの恋愛に対する初心さであり、それゆえにソネットなどの恋愛詩、恋愛文学の定型そのままに行動させてしまうことだというから悲劇以外の何物でもない。



無知であること。にもかかわらず、誠実でいようとする場合、オセローのような定型=ステレオタイプの罠にはまってしまい、現実とのギャップに空回りをきたし、悲劇的な結末を誘ってしまうことは少なくない。

もちろん、それは恋愛の場合に限らない。

知識が少なければ少ないほど、自分の知識が少ないことに気付きながらそれを補う努力を怠る人ほど、ステレオタイプの型に自らの判断を預けてしまい、さも自分で考え行動しているつもりながら、ほとんどを型に委ねてしまう。そして、多くの型がそれそのものだけでは機能するようできてはいないので、結局、何事もうまくいかず、より面倒な状況に追いやられる。この流れから抜け出すためには、自ら知識をつけ、「知識を元に自ら考える」という編集行為にのりだす必要がある。だが、これをやらない人は多くて、それで不幸な状況から抜け出せずに不満を並べつづけるしかなくなってしまう。

無知であること、定型を迂闊にも信じきってしまうことはその意味で実はおそろしいことなのだが、多くの人はそれに気づかない。
まさに定型っぽい筋書きを書けば、こんな流れが生じる。
  • はじめてのことに動揺する
  • どうしていいかわからないから、型に自分を当てはめようとする
  • 型は必ずしも現実の問題にうまく機能しないから、そのギャップにますます自分を見失う
  • ギャップがあるゆえに周囲の反応は自分の思ったものとは異なり、それゆえに誠実に接してくれる周りのことが信じられなくなる
  • 周囲への不信が状況を必要以上に悪いものだという判断をこれまた定型に従って信じてしまい、悲劇へと進む選択をしはじめる
  • どんどん苦しくなって、何かの拍子にうまくそのループから抜け出せない場合、悲劇的な結果が待ち受ける

妻デズデモーナを前にしたオセローの心の動きもまさにこんな流れとして定型化できる。

「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 20:14| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月21日

グーテンベルクの銀河系/マーシャル・マクルーハン

最近、ちょっと調子が悪い。いや、体調ではない。
頭のなかをすっきりさせておくことがむずかしいと感じるのだ。
「保守的なものへの対処法」。
それがここ最近ずっと頭を悩ませてる問題だと思う。
この週末直前、その悩みは結構マックスになってて苦しくなってきてストレスフルなので、何かにすがりつこうと思って、思いついたのがマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』

グーテンベルクの銀河系


有名な『メディア論』が書かれたのが1964年。その2年前の1962年に書かれたのが、この『グーテンベルクの銀河系』だが、僕は整理されすぎた『メディア論』より、タイトル通りの銀河のように様々なキラキラしたテキストがパッチワークされたこっちのほうが断然好き。

もう何年前に読んだかわからないくらい、読んでから時間が経ってると思って調べてみると、マクルーハン生誕100周年の2011年に読んだようだ。つまり6年くらい前に読んだ本について、いまさらながら、この本の書評を書くことで、保守的なものにいかに対処すればよいかを言葉にしたいと思って、あらためて手にとってみた。

そしたら、その序章のはじめにこんな一文を発見。
エリザベス朝のひとびとは、中世的な共同体的経験と近代的な個人主義との間で、からくも平衡をとりながら生活していた。他方、われわれ現代人は、個人主義が時代遅れのものとなり、共同体的相互依存こそ不可欠なものに思われる電気テクノロジーに遭遇しているのであり、われわれが対面している状況の型はエリザベス朝人のそれとはまさに逆の関係にある。
マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』

マクルーハンがこの本を書いた当時の50年以上前、時代は16世紀後半から17世紀初頭のエリザベス朝期の変化とまさに逆の方向への変化を遂げようとしていた。

エリザベス朝の時代というのは、いわゆるイギリス・ルネサンス期であって、フランシス・ベーコンやシェイクスピアが生きた時代である。いまだ1660年に設立される数学者・科学者たちの集団である王立協会=ロイヤル・ソサエティーは生まれていないが、そうした自然科学の隆盛がはじまる前夜ではあった。その意味で、近代的な個人主義に向かう流れは残りつつも、いまだ中世的な共同体的経験は街で生きる人々の生活には色濃く残っていたわけで、そのあたりの中世と近代が混淆する様を描いたのがシェイクスピアだったといえる(「シェイクスピア・カーニヴァル/ヤン・コット」参照)。

その逆の変化が生じ始めていたのがマクルーハンが生きた1960年代というわけだ。個人主義からふたたび共同体的経験へとシフトしていく流れのなかに、インターネットの誕生から創出という時代の流れはある。
けれど、当時、こうした明らかな時代の変化を受け入れた人もいれば、保守的に変化を拒んで個人主義にすがりつく人もいただろう。

そんな人への強烈なパンチとして放たれたこの本は、しかし、実は保守的であることも進歩的であることも、相対的であり、むしろ、ふたつの状態をパラレルに思考することの必要性を示したものだったと思う。
そんな一冊として認識している『グーテンベルクの銀河系』だからこそ、いまあらためて、この本の書評に取り掛かってみようと思ったのだ。

「」の続き
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2017年10月18日

変化には2種類ある、だから、区別して対処したい

変化には2種類ある。
変化というか、動きといったほうがいいのかもしれない。



1つは、モノや人があちらからこちらに移動したりすることによる変化である。
トランスフォーマーの変形のようなものも同じだ。場所の移動により形態は変化しても、実はそれぞれの要素は何も変わっていないから、理論的には元の状態に戻すこともできる。
その意味では、建物を建てたり、服を作ったりというのも、この種の変化といってよいのかもしれない。部品を加工しちゃうから完全には元に戻せないということはあったとしても、これは可逆的な変化といってよい。

そして、もう1つの変化は、メタオルフォーゼ的な変化。変態だ。
サナギが蝶になったり、子供が大人になったり、蕾ができ花が咲き実になるような変化。これは不可逆的な変化で、元に戻すことはできない。
だから、イノベーションとかもこっちに入るんだと思う。逆に、新しい商品とかが出たとしても、それがイノベーティブなものでなかったとしたら、さっきのほうの可逆的な変化だ。

この2つの動きというか、変化はちゃんと区別をつけて理解したほうがいいと思った。

何度か読もうと思って手に取り、そのたびに挫折してきたフランシス・ベーコンの『ノヴム・オルガヌム(新機関)』を、いまようやく読み進めながら、そう思ったのだ。

「変化には2種類ある、だから、区別して対処したい」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 20:57| イノベーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月10日

青い花/ノヴァーリス

世界は夢。夢は世界。
世界は夢となり、夢はまた世界と変じ、
とうに起こったはずのものが、
今かなたからやってくる。
想像がはじめて自在にはばたき、
思うがままに糸を織り、
ここかしこヴェールをかけ帳を掲げ、
やがで魔法のもやに消えうせる。
ノヴァーリス『青い花』

18世紀末ドイツの初期ロマン主義の詩人ノヴァーリスによる未完の小説『青い花』
先に読んだ『サイスの弟子たち』がとても気にいって、ノヴァーリスのことに夢中になり、この『青い花』を手に取ったのはおとといのこと。
ひさしぶりに本を読んで、気持ちが落ち着かない状態にさせられたのだが、そういう意味でとても魅力に満ちた一冊だ。未完なのが、なんとも惜しいが、未完でもなお読む価値がある。

『青い花』は、原題を『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』といい、主人公の名をそのままタイトルにした作品だが、引用した作品中の詩の一節同様に、どこまでが主人公が生きる現実なのか、どこからが他の登場人物が語る物語のなか、あるいは、夢の世界の話なのかが読んでいてわからなくなる作品だ。



しかし、この夢を詩と置き換えて、「世界は詩となり、詩はまた世界と変じ」と読み替えると、この作品における詩というもの、あるいは詩人というものの役割、ノヴァーリスが詩や詩人というものをどう見ているかが感じとれるようになる。
詩人が自分で奇跡におどろいているようでは、とても奇跡を行なうことはできない。
ノヴァーリス『青い花』

と語るのは、ハインリヒが母に連れられて辿り着いた母の故郷であるアウクスブルクで出会った詩の師となるクリングゾールで、ここではあらかじめ「詩人は奇跡を行う者」ということが前提とされている。

なるほど、この作品(小説?)の中では、詩人がうたった詩の内容がそのまま現実になるシーンが何度となく描かれる。
例えば、旅の道連れの商人が語るアトランティスの物語では、王女との結婚の許しを請う若者のうたがその後の父王の許しに即座につながるように。

「青い花/ノヴァーリス」の続き
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2017年10月08日

分かっていることを新たに分かり直す

デザインリサーチ。デザイン思考などのアプローチで用いられる、フィールドワークやデプスインタビュー、デスクトップリサーチなどの様々な調査方法を組み合わせて、デザインの課題を定義するために用いる思考の方法。

そのデザインリサーチをしていると往々にして起こる問題がある。
それはリサーチに関わっていない外部から、リサーチの結果をみて「それはリサーチをしなくてもわかった普通のことでないか」という反応があがるということである。



問題の要因は2つあると思う。
  1. デザインリサーチをしたことがない人には、デザインリサーチによって何が変わったかがそもそもわかりにくい
  2. デザインリサーチをした側が、そうした前提に立って、やってない人に自分たちが得たものを伝える努力を怠ってしまう(もしくは、その前提自体の認識がない)

「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」
量子力学の研究で知られる理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーの言葉だ。

デザインリサーチがリサーチを行う際の立場もこれと似ている。
デザインリサーチの対象となるのは「誰もが見ている」日常的なものであることが多い。それをわざわざリサーチの対象にしようというのだから、「まだ誰も見ていないものを見る」の目的であるはずがなく、「誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考える」ことのほうが目的になるのは当然である。

「分かっていることを新たに分かり直す」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 14:45| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月07日

わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ

ちょっとびっくりしている。
びっくりして戸惑っている。
実際には何も変わっていなくても、見方が違うだけで現実がこんなに違って見えるということに。



「わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ」

ノヴァーリスの未完の小説『青い花』で、主人公の青年ハインリヒにせがまれて父親が母親と結婚しようと決断するにいたった夢の話をする中で、夢の中で出会った老人の語る話を聞いて、父親が感じたことを述べたセリフだが、まさに、今日僕自身が感じたこともこれに近い感じのものだ。

きっかけは、最近、会社での役割が変わったことだ。変わったとはいえ、正直、今日まではあまり実感を感じていなかった気がする。
それでも、役割が変われば、やることもすこしずつは変化していくもので、そうした変化をあらためて、今日は休みだということもあり、もろもろの作業をしつつ、頭のなかの整理をしはじめたら「まるで新しい世界に上陸するような気が」するくらい、まだ何も変わっていない状況がまるで違って見えはじめたことにびっくりし、戸惑ったわけだ。

「わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 19:45| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月06日

学びの解放

言葉が錯綜して解読困難だからといって、それをあなどり投げ捨ててしまうような無思慮な人間にはなりたくない、と思う。
芸術家の技芸とは、自分の道具をあらゆるものにあてがい、世界を自分流に写しとる能力にほかならない。だから、芸術家の世界の原理は実践となり、かれの世界はかれの芸術となるのだ。ここでもまた、自然は、新たな壮麗さを帯びて眼に見える姿をとるが、ただ無思慮な人間だけは、この解読困難な奇妙に錯綜した言葉をあなどって投げ捨ててしまう。

研究=リサーチ精神に欠けた人には、自然および自分自身の秘密の発見をともなう創造としての芸術家の技芸が宿るはずもない。



前回、紹介した『オルフェウスの声』のなかでエリザベス・シューエルはフランシス・ベーコンを参照しながら、こう書いている。
「技芸は自然の一部であり、受身のアナロジーでなく能動的な操作の場、まさしく自然が言葉を語り出ることができる場、ということになるだろう」と。

「学びの解放」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:22| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月02日

オルフェウスの声/エリザベス・シューエル

先日、金沢工業大学で、アイザック・ニュートンの『プリンキピア』を題材にした「ニュートンは何を考え、何を語ったか」という講義を受講してきた。同学での公開講座「原著から本質を学ぶ科学講座」の第1回目という位置付けで、実際に同学のライブラリーには、2億円の価値があるという『プリンキピア』の初版本が蔵書されており、その実物も見学できた。


金沢工業大学のライブラリーに所蔵されている『プリンキピア』の2冊の異なる初版本


『プリンキピア』の初版が発行されたのは1687年だが、1642年生まれのニュートンは、すでに1665年には『プリンキピア』で論じられている運動の3法則および万有引力の法則を発見していたと言われている。
『プリンキピア』とは、いわば略称で、ラテン語原典のタイトルは”Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica”、日本語では「自然哲学の数学的諸原理」と訳されることが多い。

だが、数学的諸原理というタイトルの印象とは異なり、この書にはいわゆる数式はほとんど登場しない(と、講義を担当してくれた山口敦史教授が教えてくれた)。当時はまだ幾何学こそが正統な数学であり、代数はまだ発展途上のものと考えられていたからだという。
たしかに、近代的な代数的記法を導入したことで知られる、ルネ・デカルトの『幾何学 (La Géométrie)』は1637年の出版だ。ニュートンの同時代の数学者で、ニュートンとは微積分の方法をたがいに独立して同時に発見したことで知られるライプニッツも行列式を考案したり、積分記号の記法の発明などをしているのだから、たしかにそうした記述による数学的思考そのものがまだ一般的ではなかったのだろう。


ラテン語で書かれた『プリンキピア』の多くのページはこのように文字中心で記述。
時に幾何学的な図による説明が入る。


だから、ニュートンは『プリンキピア』全編にわたって、ほとんど数式を用いず、幾何学的な図だけを時には用いながら、言葉による証明を行っている。
山口教授はこの本を「とても読みにくい」と評していて「これでもか、これでもかと、証明&説明」が行なわれていると教えてくれたが、これもきっと代数的に数式を普通に用いる思考ではなく、幾何学的なボリューム感をもって触覚的な数を相手にする思考であったからだろう。
マクルーハンは『メディア論』の中で「文字がわれわれのもっとも中性的で客観的な意味を拡張し分離したものであるように、数字はわれわれのもっとも親密で相関的な活動、つまり、触感を拡張し分離したものである」と書いているが、この数字のもつ触感的なものが代理によって消されることのない代数以前の数学である幾何学的思考においては、親密で相関的なものがまとわりつくがゆえに、代数的な思考のようなすっきりとした証明&説明とは異なる煩わしさがあるのではないかと思う。

「オルフェウスの声/エリザベス・シューエル」の続き
ラベル:
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2017年09月29日

自然研究者が蒐集し、まとまりとなるよう並べて見せたものを、詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品として小さな自然を形作る

集めるという行為、そして、集めたものを眺めみるという行為のうちに、頭のなかにひらめき、ざわめくアイデアをちゃんと言葉なり形になりにするという手間をとるかどうかというのは、何かを創造する力があるかないかという観点からみた場合、とても大きな差なのだろうと感じる。

そして、同時に、その言葉なり形なりにすることを愉しむことができるかどうか、言葉なり形なりにする際に、安易にありきたりの言葉や形なりに無理やり押し込んでしまうのではなく、自ら得たはずの細かな感じ方そのものをきれいに繊細に織り上げるように言葉を紡ぎ、形を得られるかも、また、そこから創造が生じるかの分かれ道になる。



創造するということと、情報と頭の使い方について、あらためて気づくことが多かった1週間だった。

「自然研究者が蒐集し、まとまりとなるよう並べて見せたものを、詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品として小さな自然を形作る」の続き
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2017年09月25日

編集的思考でみずから解釈する、詩人のように

編集的に思考できる力がいま必要だ。
世の中にはあまりに多様な情報がありあまりすぎているから。
ありあまる情報を相手にする場合、単に情報を取捨選択すればよいわけではない。
単純に取捨選択などしようとすれば、一見、魅力的に感じることばの響きに騙され、考えもなく、それに引き寄せられてしまう。前回の記事(「倫理が現実を茶番にする」)で、何が許され、何が批難されるべきなのかを判断する倫理自体がきわめて恣意的であることを指摘したばかりだ。倫理がそれほど危うい状態なのに、誰かが放った情報をただ勘にまかせて、選びとってしまうのはあまりにきびしい。


レンヌ美術館の「驚異の部屋」の展示棚。無数の奇異な品々は奇異さというキーで編集的に集められたもの


いま必要なのは、多様な情報をいったん自分自身で編集しなおしてみて、自分なりの理解を組み立てるスキルであり、センスだろう。
逆にいえば、状況を自分でしっかり考えとらえられないセンスの欠如は、自らの思考と編集的な作業をうまく絡ませて、言語化する作業を怠ることに起因する。

そんな考えが浮かんだのは、ロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』の、こんな一説にふれたときだ。コリーはシェイクスピアの『ソネット集』からソネット21番の一部を引きながら、こう語る。
"ああ、愛において真実であるわたしは、詩作においても真実でありたい、
これが本当のこと、私の恋人は人の子の誰にも負けず美しいが
天空に据えられたあの黄金の蝋燭ほど輝いてはいない。
だから空っぽの美辞麗句が好きな者はなんとでも言えばよい。
私は売る気がないのだから褒めそやしたりしないのだ。"

もちろん、シドニー的な仕掛けは明らかだ。詩人は、己れがここで否定している、まさにその言語を用いて友人を讃美してきた。だが、我々は、そうした慣習的な美辞麗句がいかに空疎になりうるかを詩人が承知していたことがわかると、「これが本当のこと」というほうに軍配をあげたくなる。

通常、ソネットが愛する人を美辞麗句で包みこむところを、シェイクスピアはあえてその形式を逆手にとって、美辞麗句で飾り立てることを拒む。これは「真実でありたい」がゆえに本当に真実を語っているということではない。ソネットとは恋人を美辞麗句で飾るものであるという形式をあらためて前景化すること自体が、真実そのものを宙づりにしている。

量子力学の基本方程式を明らかにしたことで知られる理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーの言葉を思いだす。
大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ。

この「誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考える」ためには、科学者の視点というよりも、実は、編集的な視点が必要だ。特に、詩人的な視点での編集が。

「編集的思考でみずから解釈する、詩人のように」の続き
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2017年09月24日

倫理が現実を茶番にする

倫理などというものは時代によって大きく変わる。
人間社会で生活をおくる上で、何が許され、何が批難されるべきなのか。そんなものに正解などない。
なのに、正解がある前提で話をしたりするから、どちらが正しいといった無駄な争い、衝突がおこる。


ジャンヌ・ダルクが処刑されたフランス・ノルマンディーの都市ルーアンのヴュー・マルシェ広場
いまは聖ジャンヌ・ダルク教会が建つ


正解がないのはもちろんのこと、歴史的にみれば、その振れ幅というのは、今の僕らには考えられないくらいの大きさをもっていることに驚かされたりもする。

例えば、前回の記事でも紹介したホイジンガの『中世の秋』に描き出された中世ヨーロッパ社会では、人びとはどんな倫理観で動いていたのか?と疑念を抱くような驚くべき事柄が次々と紹介される。

そのひとつが処刑。中世ヨーロッパ社会においては、処刑が見世物としての性格をもっていたというのだ。
処刑台は残忍な感情を刺激し、同時に、粗野な心の動きではあるにせよ、憐れみの感情をよびおこす。処刑は、民衆の心に糧を与えた。それは、お説教付き見世物だったのだ。
ホイジンガ『中世の秋』

ジャンヌ・ダルクの火あぶり、魔女狩りなど、僕らが思い起こすことができる中世の処刑の風景はたしかに町の広場で行われているイメージがある。

罪人だけでなく、大貴族もまたこの見世物の犠牲になった。
人びとは「きびしい正義の執行をまのあたりにして満足」したという。当局は、この見世物の効果を損なわないようにするため、その地位にふさわしい服装を犠牲者にさせ、大貴族らしい身なりのまま処刑された。

人びとは、高い身分のものも罪を犯せば処刑されるという正義の執行に満足しただけでなく、処刑という見世物を通じて、別の形でも心を動かされた。
ブリュッセルでのこと、放火犯で殺人犯のある若者は、燃えさかる粗朶にかこまれて、付け根の環が杭にはまってぐるぐるまわるしかけになっている鎖につながれた。かれは、心をえぐるような言葉で、自分をみせしめとみるようにと、人びとにうったえた。「かれの言葉に、人びとの心はおおいになごみ、憐れみの涙にくれぬものとてなかった」。「かくて、かれの最期は、かつてみられなかったほど美しいものだったと賞揚されたのである」と、これはシャトランの言である。
ホイジンガ『中世の秋』

人びとはこうした見世物としての処刑を見ながら、ふだんはぴくりとも動かぬ心を大きくふるわせたのだという。

「倫理が現実を茶番にする」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 01:21| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月12日

思考も感情も個々人の自由などではなく、社会・文化的な様式あってのこと

本を読むなら一度に1冊ずつ読むよりも、複数冊の本を同時に読み進めることが良いと思う。
その方が本に書かれたことから、気づきを得たり、自分の思考に落とし込むことがスムーズになりやすいからだ。

本を読むというのは、決して、そこに文章として書かれた内容をただ読むという行為ではない。それは書かれたことと自身の体験や既存の知識とを折り合わせながら、自分自身の思考を紡いでいく作業なのだと思う。書かれたことを純粋に読んでいるつもりでも、そこには読む人自身の経験や持っている知識の影響が織り込まれないということはない。だから、書かれたことの解釈は異なるのだし、そもそも解釈なるものが自身のもつ経験や知と切り離せない。
だとしたら、そのことをむしろ積極的に利用して、読書というものをより意識的に知の創造的行為に仕立て上げた方がよいと僕は思う。



その視点に立つ際、複数冊の本を同時に読むという方法は有効だ。
1冊の本が相手だと、本と自分の1対1の関係になって解釈の膨らむきっかけが限定されてしまう状況に陥りがちだが、それが複数冊同時の読書だと、本と自分という1対1の関係から、本と本との関係が加わり、本同士の共鳴が1冊の本との間では生まれ得なかった気づきをあたえてくれることがよくあるからだ。
もちろん、いま読んでる本と過去の本の記憶でもそういうことは起こりえるが、やはり長い空白期間のある過去の記憶をたよるよりはより身近な記憶のほうが共鳴が起こりやすい。

僕自身、ソファーで読む本、寝るときに布団のなかで読む本と場所ごとに読む本を変えるということをよくやる。
そうすると、さっきまでソファーで読んでいた本に書かれていたことが、寝る前に読みだした本の内容に共鳴して、「なるほど、だからこういことが起こるのか」と、どちらの本にも直接は書かれていない解釈を自分自身のなかで見いだすことがよくある。

まあ、こういう解釈力というものは、当然ながら読書体験に限ったことではなく、何かを考えるという行為自体、この手の情報編集的な頭の使い方にどれだけ長けているかに関わっている。
複数の異なる人の言ってる異なる意見のなかで妥協ではない、双方が納得する新たな解を見つけだす場合だって、結局、異なる人の会話を理解しつつ、そこに自身の経験のうちに蓄積されてある様々な情報から、うまく使えそうなものを探りつつ、それらの組み合わせから「これだ!」という納得解を見つける編集作業以外の何物でもない。

そういう頭の使い方を日頃から訓練しようとする方法として、複数冊の本を同時に読み進めるという方法はぜひお勧めしたいやり方だったりする。

「思考も感情も個々人の自由などではなく、社会・文化的な様式あってのこと」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:52| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月18日

変身物語/オウィディウス

「創造」とか「イノベーション」という言葉より、「生成」という言葉のほうが、何かが新しく生みだされる様をその背後のしくみまで匂わせるという観点からはしっくりくる。
ようは前者の人為的なクリエイションがなんとなく陳腐に感じてしまい、後者の自然が何かを生みだす力のほうにより大きなクリエイティビティを感じてしまうのだ。実際、どんなに人工的なものでも、創作の根本には自然の影響がある。創造性を発揮する人間の思考そのものさえも。

もちろん、人為的なクリエイションを否定するつもりなどは毛頭ない。
ただ、人為的なクリエイションを考える際、今後はこれまで以上に、自然の創造力を人為的なクリエイションにどう活かせるか(あるいは、どう影響を受けているか)ということを視野に入れていくとよいのだろうと感じる。
世の中で、アート&サイエンスあるいはデザイン&サイエンスの融合などと言われているのは、そういう面も含めてのことであろう。

変身物語


そのような意味において、いまから2000年も前に書かれたオウィディウスの『変身物語』は、今回読んでみてあらためて、アート&サイエンス的なクリエイションを代表するような作品だと思った。

変身は生成である。
変身は、自然の力による創造でもあり、イノベーションでもあるだろう。いやいや、人間もまた自然の一部であるのだから、殊更、自然と人工を分けて考えるのはいまどきナンセンスだ。だから、わざわざ「自然の力による」などとことわる必要などない。自然と人工のもつれをあらためて認識することこそ、現在のトレンドだ。

そう。そのような観点において、ほとんどまだ存在を知られていない微生物が実は人間の身体においても精神においても多大な影響を与えていることか判明してきたり、遺伝子情報の取り扱いコストが劇的に下がったことでそれを情報メディアとして扱うことも含め、比較的誰でもやる気になればハッキングすることが可能になったりなど、バイオ=生物学的な観点でさまざまな創造性が見直されようとしている現代の状況において、『変身物語』の変身・生成に対する視点は、とても示唆的だと感じるのだ。

その意味で、オウィディウスの『変身物語』は、いまこそ『創造物語』であり『イノベーション物語』として読み直す価値のある作品だと感じた。

「変身物語/オウィディウス」の続き
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2017年06月30日

わかっていることから逃げろ

みんな気づいているだろうか。
わかってしまっていることほど、わかることを妨げるものはない、ということに。



カオスを前にして、ただただ混乱してパニックになるだけか、それともカオスをなんとか制御する手立てを発見しようとカオスのディテール、全体の動向を共にみて思考を巡らせるか。基本的には知的に考えるということは、後者のような態度をいうはずだ。

その後者の態度をむずかしくさせるものこそ、すでにわかりきって整理された状態である。
それはもはや制御されすぎていて、どう制御すればよいかを問う余地がないのだから。

その意味ではカオス(混沌)の逆はコスモス(秩序)ではない。真にカオスの反対に位置するのは、操作された状態だろう。
外にあるプログラムを疑うことなく、それに操られて日々スムーズに動き続ける状態。何にも悩まないし、何にも躓くことはない。すべては苦もなく手に入る。

もちろん、そこまで完璧に夢のような生活を送れている人はいないだろう。
現実はもうすこしだけカオスに近い。
けれど、その現実をカオスと見るか、夢のような世界と自らに暗示をかけて、すべてをわかっているものと信じこみたいのか。わからないものは自分に近づかないよう、既知のイメージや記号でできた夢のような世界に閉じこもるのか。

僕がカオスが好きなのは、そんな夢のような世界が退屈すぎると思うからだ。
わからないものがあるから、新しくおかしなことを考える自由な余地がある。わかりきったことばかりで答えも決まってたら、息苦しくて、きっと気が狂うだろう。

幸運にも現実世界はそんな風にはできてなくて、よく見ればカオスだらけで、一見、スムーズに動いている日常の道具も言葉も仕組みもほころびだらけだから、いくらでも知的なハックは可能だ。
だから、飽きずにいろいろ考え続けられる。
わかっていることばかりの退屈な状態から逃げ続けることができる。

「わかっていることから逃げろ」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:42| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月29日

見る目、聞く耳/アルチンボルド展を観て

ウリッセ・アルドロヴァンディという16世紀のイタリア・ボローニャで生まれ育った有名な博物学者がいる。1522年に生まれ、1605年に没している。
アルドロヴァンディが有名なのは、自身がイタリア各地で採集した植物を中心として、めずらしい動物や鉱物の膨大な数の標本を集めたミュージアムを開設し、そこに国内外から多くの博物学者が訪問したからだ。


アルドロヴァンディの“Monstrorum historia”のなかの人面鳥の図版。


アルドロヴァンディはミュージアムに彼自身が学問的に価値があると捉えた様々な品を集めただけでなく、自らの蒐集品を元に動植物誌の編纂を試みた。そのため、多くの画家に収蔵品を素描させているのだが、その中にはドラゴンや人面鳥などが当たり前のように混ざっている。

これは現代から見れば非科学的で、とても学問的には思えないのだけれど、それがおかしく思えるのは、当時はまだ発見されていない現代の枠組みから見るせいだ。現代から見ればおかしくても、その枠組み自体がない時代においては、おかしいのか立派な意味があることなのかさえ判断できなかったのだということを忘れてはいけない。

とにかく、生物が何もないところから生まれてくるというアリストテレス由来の自然発生説が信じられていたような時代だったのだ。
化石でさえも石から生まれるものと思われていたし、そもそも生物種の整理の仕方が確立されるには、200年近く後の18世紀のカール・フォン・リンネの分類学を待たねばならなかった。そのリンネの分類学さえも、まだダーウィンによる進化の概念がなかったがゆえに形態の類似異同によるものだったわけで、16世紀のアルドロヴァンディの時代に、何らかの生物の奇形であったと思われるドラゴンや人面鳥が見つかったとして、それが個別の種だと考えたとしてもそれほどおかしなことではないだろう。

「見る目、聞く耳/アルチンボルド展を観て」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:57| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする