2016年12月01日

「ルネサンス期の蒐集家たちに学ぶ”未知”との付き合い方」と「想像できるからこそ世界はデザインできる」

完全にこちらのブログは更新が止まっていますが、会社のブログのほうに2つ記事を書いたので紹介。

ルネサンス期の蒐集家たちに学ぶ”未知”との付き合い方


"理解する"ことと"創造する"ことの深いつながり。従来の文脈とは異なる価値=意味をもたらすイノベーションが求められる時代だからこそ、未知の物事を自分自身で理解、解釈する力が求められているのだと思う。そんな考えをひさしぶりにブログ記事の形で書き出してみた。

想像できるからこそ世界はデザインできる


プラトンやアリストテレスなどのギリシアの哲学者は、哲学は驚きからはじまると言った。驚きこそが知的探求のはじまりにあると。
けれど、同じものをみても、驚けるかどうかは見方次第である。ゆえに知とイメージ力は関係する。
そして、なによりイメージする力、想像する力がなければ、思い通りの世界はつくれない。
そんな関係性をブログにまとめてみた。

興味のある方はご一読いただければ。
posted by HIROKI tanahashi at 23:43| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月31日

2015年に読んで面白かった視覚表現史に関する7冊の本

さて、2015年も今日で終わり。
最後に、今年読んだ本をいくつか紹介しておきたい。
特に、今年は「視覚表現史」とか「視覚表現の変遷を通じた思考の歴史」とでも呼べそうな本を集中的に読んだので、その中から面白かった7冊を紹介しておきたい。

紹介するのは、この7冊。



  1. 高山宏『アリス狩り』
  2. バーバラ・M・スタフォード『ボディ・クリティシズム』
  3. ユルジス・バルトルシャイティス『アナモルフォーズ』
  4. ピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋』
  5. サイモン・シャーマ『レンブラントの目』
  6. マリオ・プラーツ『肉体と死と悪魔』
  7. ポーラ・フィンドレン『自然の占有』

では、1冊ずつ順を追って紹介。

「2015年に読んで面白かった視覚表現史に関する7冊の本」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 14:16| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月29日

思考の歴史というものを考えてみたい(前編:中世、そして、15-16世紀)

何のためかはひとまず置いておいて、先日、ふと思い立って、15世紀から19世紀にかけての芸術や科学にまつわる歴史的な出来事を中心に気になるトピックをポストイットに書き出し、並べてみるという1人ワークをやってみた。



やってみると、やはり面白いものでいくつか時代の変換点といえる地点が見えたり見えなかったりしたので、今回はそれをざくっとまとめてみる。

「思考の歴史というものを考えてみたい(前編:中世、そして、15-16世紀)」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 18:41| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月08日

いやしくも生について正確に伝えようとするなら病的になる他ない

本を読んでいて興奮することの1つは、いままさに読んでいる本の言葉の1つによって、いろんな別の本に書かれた内容がつながり、なるほど!と思える1つのストーリーが自分のなかで編集的につくられることだったりします。



昨日もバーバラ・M. スタフォードの『ボディ・クリティシズム―啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』を読んでいて、以下の一文に差し掛かったとき、別の本に書かれたさまざまなことが僕のなかでつながりました。

苦悶する肉体の許されぬものと官能ばかりを描く20世紀アイルランドの画家、フランシス・ベーコン(1909-1992)が、自らのおぞましい画像の数々を説明して、こう言っている。「いやしくも生について正確に伝えようとするなら病的になる他ない」、と。
バーバラ・M. スタフォード『ボディ・クリティシズム』

スタフォードのこの本は、そのサブタイトルどおり、18世紀の医学とアートの深い共犯関係を明らかにしながら、その過程での「イメージ化」に際しての新古典主義的なものとロマン主義的なものの対立に幾度となく言及しています。

その1つの言及が先の引用であり、時代的には2世紀ほど下った時代のベーコンの言葉を引きつつ、ロマン主義的なるものが何故、病的なるものや汚れたもの、そして、暴力や死などに美を認めるのかという点について言及しはじめるのですが、この文のすぐ先には「生とは気味悪いしるし付け、まず性交、そして暴力的死であるに他ならない」といったことも書かれていて、このあたりから僕はまさに1つ前の記事で紹介したマリオ・プラーツがまさに19世紀のロマン主義から象徴主義げと連なる芸術の病的傾向を論じた『肉体と死と悪魔―ロマンティック・アゴニー』のことを思い出したり、こちらもしばらく前に紹介しているサイモン・シャーマの『レンブラントの目』も同時に思い出したりしたわけですが、前者はともかく、後者の17世紀の画家レンブラントを論じた本がなぜ、先の引用とつながるのかはこの時点ではよくわからないと思うのでそれについてもこのあと説明しつつ、僕が感じたことを今回の記事では記していきたいと思います。

「いやしくも生について正確に伝えようとするなら病的になる他ない」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 18:08| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月07日

肉体と死と悪魔―ロマンティック・アゴニー/マリオ・プラーツ

すこし前に19世紀への興味について書きました。



19世紀というと、20世紀生まれの僕からすると、そんなに遠く感じない時代かなと思う一方で、デザインの文脈でいえば、アール・デコやバウハウス的なモダンデザインが登場する前、せいぜいアール・ヌーヴォーが19世紀の末に登場したくらいの時期であり、社会の見た目はいまとは大きく違ってもいた時代だったはずです。

特に、ヨーロッパの都市は衛生状態が劣悪で、貧困層を中心に多くの死者や病人を出すことが18世紀以来続いていました。ようやくパリで、1853年から1870年まで17年にわたって知事を務めたジョルジュ・オスマンによる大改造が行われ、都市環境が改善されはじめたのが19世紀の半ば。実際、このあと紹介していくように、18世紀から19世紀の前半にかけては、パリなどの都市部ではペストや天然痘、ハンセン病などの感染症が流行し、それがロマン主義文学や恐怖小説などの登場にすくなからず影響しています。

いま僕自身の関心は時代をすこし遡って18世紀に移っているのですが、この感染症の流行などもそのひとつであるように18世紀について知ることで、あらためて19世紀が見えてきた部分もあるので、そのあたりもふまえてすこし自分の整理のためにひさしぶりにブログを書いてみたいなと思います。

ということで、19世紀について何のとっかかりもなく書くのもむずかしいので、19世紀について知るために読んだ本のなかから1冊、マリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔―ロマンティック・アゴニー』を紹介しつつ、話を進めていこうと思います。

「肉体と死と悪魔―ロマンティック・アゴニー/マリオ・プラーツ」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:30| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月24日

本を読むときに何が起きているのか/ピーター・メンデルサンド

僕らはごく普通に「あの本はわかりやすい、この本はわかりにくい」などと言ったりします。
でも、そもそも「本がわかる」というのはどういうことなんでしょうか?



作者の綴る言葉から何がわかればわかったと感じ、わからない場合はどういう意味でわからないと感じるのでしょう。作者の言うことがそもそもわからないのか、何を言っているかはわかっても、だから何なのか?がわからないのか。
そして、わかりやすさやわかりにくさは、そもそも、それぞれの本がもつ特性なのでしょうか?

ある本は、ある人にはわかりやすく、また別の人にはわかりにくいかもしれません。ある人にとってわかりやすい本でも、それがおもしろいかどうかはまた別物だったりするし、その面白さもまた人によって異なるでしょう。

百聞は一見にしかずと言いますが、本を通じてわかることは、何かを見てわかることと同じなのでしょうか。
複数の人が同じ何かを見た場合、その視線でとらえたものに大きな違いはないと思われますが(見た後の解釈は除けば)、本を読んで感じることは人によって大きな違いがありそうです。
名もなき一匹の猫は誰が見ても、そう大きな違いを生じずに同じ一匹の猫として認識されそうだけど、「吾輩は猫である、名前はまだない」と書かれた文章から想起する猫は読んだ人のあいだでまったくバラバラになりそう。まさに「百聞は一見にしかず」で言葉をどんなに積み重ねても、目で見て誰もがわかるのとように、文章を通じて誰もが同じようにわかる状態をつくりだすのはかなりむずかしそうです。

それなのに、僕らはごく普通に「あの本はわかりやすい、この本はわかりにくい」などと言ったりします。
本を読んでわかるということ、いや、本を読むとはどういうことなのか?を深く考えたりもせずに。

「本を読むときに何が起きているのか/ピーター・メンデルサンド」の続き
タグ:理解 読書
posted by HIROKI tanahashi at 22:11| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月04日

レンブラントの目/サイモン・シャーマ

17世紀の中頃、いよいよデザインという思考の形が人々の頭を支配しはじめたのがその時代であったと僕は考えています。

後に18世紀に入れなテーブル(表)にデータを並べる操作により、リンネにはじまる近代分類学という科学的な物の見方が生まれたり、さらにその1世紀後の19世紀には同じく品物をあるルールに基づき陳列することで、万国博覧会や百貨店という物の価値=意味を提示するための方法の創出にもつながっていくデザイン的思考によるさまざまな発明。

そんな風にさまざまなものを収集しレイアウトすることで意味=価値を生みだす視覚的イリュージョンが、17世紀の中頃から、それを行う人の思考さえもそれ以前とは大きく変えはじめます。その新たな思考の技法を駆使して、世界の見方を整え、理解を促そうという思考のあり方、つまり、デザインという思考のあり方が浸透しはじめた大きな変化のはじまりが17世紀中頃だったと僕はみています。



そんな17世紀中頃のまさに時代を変えた場所の1つであったアムステルダムという都市に生きた画家レンブラント。

その彼の生涯を、いや、それどころか、彼に先行するルーベンスの生涯どころか、その父親の生涯からたどることで、いかに17世紀のオランダやフランドル地方においてカトリックとプロテスタントの対立や、それと決して無関係ではないアムステルダムの経済的発展が、どのような形でルーベンスやレンブラントの芸術に影響を与えたのかをしっかりと描き出した700ページ、2段組の大著が今回紹介する歴史学者サイモン・シャーマによる『レンブラントの目』です。

分厚い本が好きな僕ですが、さすがにこの分厚さにはやられました。

この本を読みながらあらためて理解したのは、宗教改革という西洋におけるキリスト教社会の変革が人間にとってとてつもなく大きな変革をもたらす影響力の強いうねりだったのだということでした。そして、その影響が絵画の上にもはっきりとした形であらわれていて、その対比をみるのにルーベンスとレンブラントの関係はとても象徴的な関係であることも知りました。

はじめに書いたとおり、17世紀が人間の思考の大きな変革のポイントであったことは、これまでも折をみていろいろ(これとか、これとかで)書いてきましたが、まさにその変革の足跡がレンブラントの目によって描き出された絵画という形で残っていることを知り、どきどきしながら、700ページ超・2段組の大作を読み進めることができました。だから、このとてつもなく分厚い一冊も途中で投げ出すこともせず最後まで読み切れたのでしょう。

そんな濃い一冊から、1つのポイントとして、ルーベンスとレンブラントの関係をカトリックVSプロテスタントという対立という視点からすこしだけ書き出してみることで、この本の紹介になればと思います。

「レンブラントの目/サイモン・シャーマ」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:32| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月27日

ヴィクトリア朝の宝部屋/ピーター・コンラッド

技術とその応用が人間というものを大きく変えます。
マクルーハンが「すべてのメディアは身体の拡張である」と語ったのと同じ意味で、あらゆる技術は単に人間の生活スタイルを変えるだけでなく、人間の思考や物事の捉え方自体を革新してしまいます。

ようするに、常に僕らの思考や価値観はいま現在用いられている技術の影響なしにはありえない、そういうことになります。また、過去に同じように人々の思考を変えた技術の影響に僕らの思考は囚われたままということでもあると思います。



ほとほと困ってしまうのは、僕ら自身がそのことをすっかり忘れがちだというでしょう。

僕らは、あたかも自分たちが自由に考えているように信じているし、普遍的な仕方で考えていると勘違いしています。それゆえに思考や価値観に関してはきわめてイノベーションが起こしにくい。ほかの分野のイノベーションの結果として、思考や価値観の革新が起こることはあっても、直接的に思考や価値観に革新を起こそうとするプロジェクトはどれもアジリティを欠いた状態に陥りやすく、いっこうに成果を生み出せません。

技術が思考や価値観に与える影響に無頓着な僕らは、過去の時代を振り返る際に、ある技術の登場によって生じた人間の思考や価値観の変化そのものを無視して、いまの思考や価値観を過去にも投影してしまい、まったく素っ頓狂な理解を過去に対して当てはめてしまいがちです。
その愚かな過ちを正すためには、いついかなる時代にどんな技術のインストールによって、僕らの思考に変化が生じたのかというバージョン管理をしていく必要があるのだけれど、ありとあらゆる分野で人はバージョン管理に悪戦苦闘しているのと同じように、このテーマにおいても同様のバージョン管理の失敗によって、不要な議論が繰り返されることになり、結果、先に述べたとおりアジリティが犠牲になっているわけです。

そろそろ、マクルーハンのメディア論的思考が当たり前になっていいと思うわけですが、なかなかそうはならないのは、やっぱり、そもそものところ、多くの人が自分たちの「思考」というものについて深く考えないからなんでしょうね。自分たちにインストールされた「思考」というソフトウェアについて。


「ヴィクトリア朝の宝部屋/ピーター・コンラッド」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 13:45| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月26日

デザインの体幹 Vol1&2 のスライドをシェア

5月から「デザインの体幹」というトークセッションイベントをやってます。
前にこの記事で紹介した「デザインの深い森」というイベントの続編です。

2015-06-26 19.10.41.png
▲昨夜の「Vol2.物語編集力」のスライドの一部。物語編集力を実践で示すためにつくった15世紀東西の歴史年表

「デザインのための4つの領域を鍛える連続トーク講座」と銘打って、ファシリテーション/物語編集/リフレーミング/構想の4つのテーマを1回ずつ、僕と千葉工業大学の山崎先生にプラス、テーマに応じたゲストを迎えてトークを行うイベントです。

昨日は、Vol2.ということで「物語編集力」をテーマに話しましたが、結構、ディープでカオスで参加者の頭を悩ませるトークが繰り広げられました。
ゲストの方を含めて3人それぞれが三者三様の形でテーマを噛み砕いて話すので、これが「物語編集」だとか、物語編集とデザインの関係が決して一義的に語られることなどは一切なく、イベント設計者の企図どおり、とっても理解がむずかしく頭をひねられる会になってるのがよいなと思います。

今回は、その一部として僕のパートで話したスライドとVol1.の「ファシリテーション力」の際の資料もあわせてシェアします。

「デザインの体幹 Vol1&2 のスライドをシェア」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 20:40| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月30日

木を見て、森をみない「ディテール執着症」のはじまり

前回の「19世紀後半の芸術の残骸としてのわかりやすさとリアリティ」では、現代の「やらせ映像」にもつながる、ある側からみれば非常にわかりやすいリアリティをもった、また別の意味からいえば紋切り型のそうした表現に関する実践的研究が行われたのが19世紀後半の自然主義・写実主義芸術の時代であったことを紹介しました。

その19世紀の半ば以降に生まれたのが、ショールームや百貨店などの販売システムであったことは、前々回の「見せる空間から参加する空間へ」という記事で紹介しています。
世界最古の百貨店といわれるボン・マルシェがいまにつながる百貨店のシステムを確立したのは1852年。それに先立ち、世界最初期のショールームというべき、鉄骨とガラスで作られた巨大な建造物である「水晶宮」で知られる世界最初の万国博覧会であるロンドン万博が開かれたのが1851年です。

bon marche
▲19世紀半ばに世界ではじめて百貨店システムを誕生させ、1887年にギュスターヴ・エッフェルらにより店舗を拡張したボン・マルシェの現在の店内の様子

この様々な商品を魅力的に並べて販売するシステムが生まれ、同時に、わかりやすいリアリティをもったピクチャレスクな表現によって都市で暮らす大衆の生活を絵画や小説が描きはじめた19世紀の半ば以降、もう1つ、この時代の芸術家に特徴的な性質がありました。

それが何かといえば、異様なまでの細部へのこだわりです。

「細部の宝庫ではあるが」とヘンリー・ジェイムズはジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』について言っているー「しかし、それは無頓着な全体である」。同じことがヴィクトリア朝の全体について言えるかもしれない。ヴィクトリア朝の芸術作品はしばしば、その時代の室内と同様、できるかぎりぎゅう詰めにすべき入れ物であるように思われる。
ピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋 』

前回の「19世紀後半の芸術の残骸としてのわかりやすさとリアリティ」に引き続き、19世紀の写実主義や自然主義の芸術が現在にもたらした影響のようなものについて書こうとしているわけですが、この「細部へのこだわり、全体への無頓着」という話も、非常に現代につながる19世紀の発明であるように感じます。

その細部へのこだわりが、全体の統一や大きな問題の解決への意識を捨て去る口実であるかのように、19世紀後半の写実主義・自然主義の芸術家は、絵画においても文学においても徹底して緻密にディテールを描きこむことへの執着をみせます。結果、できあがるのは、全体の調和を見事に破壊してしまうくらい、異様な執着をもって細部が描きこまれた作品だったりします。

まずは、そんな作品の例をいくつかみていくことから話を進めてみたいと思います。

「木を見て、森をみない「ディテール執着症」のはじまり」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 21:15| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月28日

19世紀後半の芸術の残骸としてのわかりやすさとリアリティ

わかりやすさとリアリティ。
何かを「わかる」ということが、その何かが置かれた文脈を理解することなのだとしたら、わかりやすい文脈ごと提示してリアリティを感じさせる表現というのは、何かを「わかりやすく」伝えるための非常に有益な方法の1つといえるでしょう。
すーっとリアリティをもって受け入れられるということは、そのこと自体、そこに表現されているものが、それを受けとる人にとって、わかりやすいものになっているという証拠だといえるのかもしれません。

opera
▲1875年に竣工のパリ・オペラ座(ガルニエ宮)。まさに19世紀後半のパリ大改造で建てられた建築物

その方法の模索…、
ぱっと文脈を読みとることができるリアリティある表現によって大衆が「わかる」ものを提示する方法…、
それが大々的に模索されたのが19世紀後半の自然主義・写実主義の時代だったように思います。

その中心にあったのが、ピクチャレスクでした。
17-18世紀を通じて、自然や遠方の憧れの土地などを見栄えのする絵のように表現することを通じて、身近に、そして、あたかもそれを自分が所有しているように感じさせるピクチャレスクという表現方法が多くの芸術家たちによって磨かれてきました。と同時に、表現を受けとる側の市民のほうもピクチャレスクな表現を読み解く力を身につけてきました。

そのピクチャレスクの対象が、自然や遠方の地から、より身近な都市の日常の光景に向かったのが、19世紀の自然主義・写実主義の時代でした。そして、「わかる」ということのあり方が大きく変わり始めたのが、その時でした

「19世紀後半の芸術の残骸としてのわかりやすさとリアリティ」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:24| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月23日

見せる空間から参加する空間へ

最近「見せる場」のあり方について考えることが多くなっています。仕事でも、プライベートでも。

そもそも、ここ数年、プライベートで視覚文化と人間の知的活動や思考の関わりに関する歴史に興味をもって、いろいろ本を読んだり調べてみたりしたんですが、そこにたまたま仕事でもそうしたテーマに関わる機会が増えてきているので、結構楽しんでいます。

Au Bon Marché (vue générale - gravure).jpg
"L. A. ボワローとギュスターヴ・エッフェルによって1887年に建てられたボン・マルシェ Au Bon Marché (vue générale - gravure)" by 不明 - fonds Boucicaut. Licensed under CC0 via ウィキメディア・コモンズ.



そんな僕がいま興味をもっているのが19世紀のヨーロッパ。
19世紀の半ばって、ある意味、それまで17-18世紀をかけて積み重ねられてきたヨーロッパにおける「視ること=分かること」というプロジェクトが、1つ別の段階にシフトするタイミングなんですね
集めて、並べて、視覚的に意味を生成するという実験が次の段階に入って、集めて、並べることで経済活動を生み出す段階に入ったのが19世紀の半ばくらいなんです。
産業革命もだいぶ進んで、とにかく効率よく生産したものを、より効率的に売らなくてはいけなくなった時代です。そこで「集めて、並べて、視覚的に意味を生成する」というそれまでの実験が、ビジネスに結びついていくんですね。

例えば、その1つの象徴的な例が現在もパリにある百貨店ボン・マルシェの登場です。

「見せる空間から参加する空間へ」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:08| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月01日

僕が難読本を読む理由

僕が勤めるロフトワークという会社では、毎月はじめの月曜日にクリエイティブMTGという名で、参加を表明した7−8名程度が1人5分ずつプレゼンをするイベントがあります。

今日もそれがあって、僕も「僕が難読本を読む理由」というテーマで、ちょっとしたプレゼンをさせてもらったのですが、せっかくなので、そこでしゃべったことをブログ記事にしてしまうか、と。



上は、うちの本棚の一部ですが、ここに並んでいるあたりが僕のお気に入りの本。
まあ、なかなか人が読まない本ばかり読んでます。

左から5冊はバーバラ・スタフォードという18世紀の啓蒙の時代においてイメージが科学や教育に果たした役割を扱うのが抜群に上手な女性研究者の著作。そして、もう1人、僕がすごく影響を受けているフランセス・イエイツがという16ー17世紀のヨーロッパでネオプラトニズムやヘルメス主義のような魔術的思想がいかにしてその後の科学的思考を生みだすに至ったか?みたいな本がその横4冊くらいまで並びます。そして、このブログでもおなじみのワイリー・サイファーやM.H.ニコルソン、マリオ・プラーツなどの本が並んでる。このあたりがここ数年のお気に入り。

「僕が難読本を読む理由」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:36| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月29日

人間にとって「創造」という概念自体、発明品だったのかも…

前回の「デザインという思考の型から逃れる術があるのか?」という記事のなかでも告知していたイベント「デザインの深い森」。その第3回の講演を昨夜開催しました。
ウロボロスの洞窟と光の魔術師」と題して行った講演は、keynoteのスライドにして105枚、しゃべった時間はあんまりはっきり憶えてないけど、2時間近かったんじゃないか、と。もちろん、最長講演時間の更新。質疑応答のときは声が出なくなりました。

no-title
▲講演で使用したスライドのサムネイル(クリックして拡大すればもうすこし見える)

それこそ2時間も話したので、その内容を要約するのは、むずかしいんですが、
  • 17世紀中頃を境にした「見る」ことと「思考する」ことの関係の歴史的な変遷だとか
  • 似たような観点で「照らす」ことと「知る」ことの関係って?みたいなこととか
  • そんな内容をレンブラントとルーベンスという2人の画家を、偶像破壊のプロテスタントと五感全体を使ってキリスト教を体感させようとしたカトリックという視点で対置してみたり、
  • ルネサンス期のネオプラトニズムとヘルメス主義的魔術の融合がいかに戦火の時代の文化や思想、芸術に強い影響を与えたかだとか、
  • その流れのなかであらわれた薔薇十字団という秘密結社の盛衰が後に、ユニバーサル言語という観点から、いかにあいまいなものを消し去り、絵をロゴスに従属させるものに変えていったか、など。

そんなことを、のらりくらりと話してみましたわけです。
「人間にとって「創造」という概念自体、発明品だったのかも…」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 01:20| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月20日

デザインという思考の型から逃れる術があるのか?

最近、デザインとは「思考の型そのものである」と考えるようにしています。
しかも、その思考の型は決して特別なものではなく、むしろ、現代に生きる僕たちはデザインという思考の型以外で考えられなくなっている。僕はそう考えるようになりました。

昨今、「デザイン」という概念の重要性が増し、誰もがその力を身につけようと方法論や事例をかき集める風潮がみられますが、この僕の観点からいえば、むしろ僕らはデザインという型を使わずに考えることができないのだから、本当に願うべきはデザイン力を身につけることではなく、いかにしてデザインという思考の型に無意識のうちに縛られている自分を自覚するか、デザインという思考を本当の意味で認識対象にするかということではないかと思うのです。

僕らはみな、デザイン力がないのではなく、むしろ、デザインという力を使ってしか考えることができないのだ、と。


▲イベント「デザインの深い森」の第3回の内容を構想中

そんな風に考えるようになったのは、いま僕は千葉工業大学の山崎先生といっしょに月1でやっているトークイベント「デザインの深い森」の企画を考えはじめたときでした。第1回目で僕が話した内容は、1つ前の記事でもプレゼンスライド付きで紹介しています(ちなみに次回以降はスライド公開予定はないので、内容に興味のある方はぜひ参加してくださいね)。

このイベントは全6回のシリーズで僕と山崎先生が交互に講師役をつとめる形で進めているんですが、イベントを企画したきっかけは、昨今のデザインをめぐる言説の多くが方法論や事例紹介みたいなものに偏りがちだけど、本当の意味でよいデザインをするために必要な「デザインの体幹」みたいなものって何だろうね?ということを考えはじめたところにあります。

デザインの体幹と表現したデザインの基礎みたいなことを山崎先生とディスカッションしたりする中で、僕のなかで思い浮かんだことが先に書いたような「僕らはみな、デザインという力を使ってしか考えることができないのだ」という結論でした。つまり、基礎は何か?を考える際、ある特定の人だけがもっている力を想定するのが間違いで、むしろ誰もがみなその方法で思考しているために却って、それが方法であることが認識されない、その隠れた方法こそが、デザインというものの核だろうと思い当たったのです。

「デザインという思考の型から逃れる術があるのか?」の続き
タグ:思考
posted by HIROKI tanahashi at 23:11| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする