2017年12月17日

イメージと思考を結びつける

イメージと思考との関係について考えることが好きだ。

言葉にならないものをイメージで表現するといったりする。もちろん、イメージを使えば言葉と異なる表現ができるのだけど、だからといって、イメージが表現しているものを言葉で説明することを怠ったりするのは、あまり好きじゃない。イメージを表現に使うにしても、その背後には思考があってほしい。とうぜん、それが言葉による思考である必要はないし、思考をイメージで表現するのではなく、イメージによる表現自体が思考であればいいのだけれど、そもそもの思考がないなら、それは好みではない。

むしろ、言葉にならないものを表現しているからこそ、イメージそのものが表すものについては、言葉で表現されたもの以上に言語化する方向で思考を巡らせたほうが面白いはずだ。


田中純『歴史の地震計』中の図版「ムネモシュネ・アトラス」のパネルの1枚


だから、アビ・ヴァールブルクの『ムネモシュネ・アトラス』という971枚の図版が総数63枚の黒いパネルに配置された作品(?)を言語化する田中純さんの試みには、繰り返し惹かれている。

例えば、『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』という本を読んだのは、2008年の7月だから10年弱経っている。そして、つい最近も『歴史の地震計』を読んで、いろいろ興奮させてもらったばかり。
その本で、ヴァールブルクの『ムネモシュネ・アトラス』はこう紹介されている。
まず、『ムネモシュネ・アトラス』の概要を説明しておこう。
「ムネモシュネ」とはギリシア神話における記憶の女神の名である。ヴァールブルクが「図像アトラス」とも呼んだこのプロジェクトは、古代から20世紀にいたるヨーロッパの美術作品をはじめとするさまざまなイメージの図版を、黒いスクリーン上に配置した、数十枚のパネルからなるシリーズである。ただし、パネルそのものは失われ、それを撮影した白黒写真しか残っていない。

と。この説明のとおり、『ムネモシュネ・アトラス』は図版の集積・レイアウトであって、それを説明する言葉はヴァールブルクが生前書き残した断片のみしか存在しない。

上の写真がそのパネルの1枚を写したものだ。
こんなパネル63枚から成るのが『ムネモシュネ・アトラス』というヴァールブルクの作品だ、ということになる。だから、簡単にそれが何を示しているのかはわからない。けれど、わからないといって、それを思考の対象から外すという選択が僕は好きじゃない。

ヴァールブルクはこの『ムネモシュネ・アトラス』を制作中に亡くなっているので、最終版の図版の選定および配置が必ずしも完成形を示してはいないし、果たして完成形なるものがあり得たかどうかさえ定かではない。それゆえ、通常の意味でなら、この971枚の図版、63枚のパネルから成る全体が何を表現しているかは明確にはわかりえない。
けれど、美術史家・文化史家であり、イコノロジー(図像解釈学)の創始者とも言われるヴァールブルクが自ら選定し配置した、この図像群、パネル群が何の思考の裏付けがないはずもない。それはいわゆる展示=エキシビションと同じように、ある思考をイメージによって具現化したものであるはずで、それが直ちには言語化しづらいからといって、そこに意味や思考がないはずはない。

だからこそ、田中純さんがそれを言語化していく作業を読むことができるのはとても刺激になる。
そして、デザインやクリエイティブに関わる仕事をしている僕ら自身がやっている、いや、やらなくてはいけないのは、こうした思考作業にほかならないと、常に思う。

イメージと言語の狭間で思考し、その間をつなぐ動きをつくること。
企図が形になり、形が別の想いを生む。

そうした運動をいかに生成するかがデザインやクリエイティブの仕事であるのだとしたら、イメージと思考&言語を結びつける知的操作は常に欠かせない。
思考・言語化のないただのイメージの操作には何の面白さもないのだし、そういう思考を働かせないのなら、いっったい何をしているのか、その作業の価値を疑ったほうがよい。

「イメージと思考を結びつけて」の続き
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2017年12月10日

シェイクスピアの生ける芸術/ロザリー・L・コリー

人はどれだけ自分自身で考え、行動しているのか。
僕はそんなことを時折思い出したかのように、繰り返し考えている。
ある意味では、その問いを発し続けることが、僕の人生の1つの大きなテーマであるようにさえ思う。

シェイクスピアの生ける芸術


でも、その問いはもうすこし正確にいうと、こうなる。
「人の考えや行動に影響を与えているものはどんなものなのか、それはいつから、そのように影響しはじめたのか?」と。

つまり、僕は人が自分で考え、自分で行動することなど端からないと思っているわけだ。僕の関心はむしろ、僕らは何によって考えさせられ、動かされているのか?ということになる。

だから、この『シェイクスピアの生ける芸術』という本の冒頭近くで、著者のロザリー・L・コリーがシェイクスピアのやったことについて、こう問いかけるのを読んだだけで、この本がすごく面白い本だと直観できた。
シェイクスピアにとって「アカデミック」とは、その濫用された語の二通りの意味において、何であったのだろう……すなわち、彼にとって、何が単純で、容易で、自然であり、何が研究や学識を要するものであると感じられたのだろう。諸事、アートのなかに封じられると、慣習のかたちをとって「静」と化し、我々が思いを巡らす相手とされる。だが、アートが静を破って、アートがなすはずの、そして現になすようなありとあらゆる仕方で、「生ける」かのように見え、我々を「ゆさぶる」ように見えるとき、もっとみのり豊かではあるが、もっと困難な道のりが始まる。

人は自分で考え、行動する生き物ではないと仮定した際、"単純で、容易で、自然で"あると感じられることほど、何かに気づかないうちに動かされている状態というのもないと思う。"慣習のかたちをとって「静」"となった状態ほど、人が紋切り型を型通りに演じさせられている状態はない。



そして、やっかいなことに"単純で、容易で、自然"と感じられるような「静」の状態にのみ慣れてしまうと、そこから自らの力で脱けだすことさえできなくなってしまう。
そう、カウンター型でさえ、自分自身の思考や行動ができなくなってしまうのだ。
「生ける」状態に自分自身を戻すためには、「静」を破るゆさぶりが必要になる。

そう思うからこそ、コリーの本書にかけた、こんな狙いが頼もしく感じられるのだ。
本書で私は現代で言う最悪の意味において「アカデミック」としか見えないものを、蘇らせようと、いやともかく改めて生き直してみようと試みた。技と文化をつうじて作家に継承されるそれら静かな形式もろもろを、それによって芸術家が生き、それゆえ芸術また生きる形式もろもろを、ということである。

「静」をゆさぶる達人シェイクスピアが果たして、どのようにアート=技を捉え、その技そのものにどうゆさぶりをかければ、死んだように静的な日常が、苦しくも生きがいのある動的な状態になると考えたのか?

というわけで、もうすこし、本書を紹介しながら、このことについて考えてみたい。

「シェイクスピアの生ける芸術/ロザリー・L・コリー」の続き
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2017年12月02日

バラバラに切り刻みこまれた言説が意味が空っぽの器をつくる

物事を総合的な視点で見ようとせず、ディテールばかりを見て論じてしまうがゆえに、議論が空虚なものになることは少なくない。議論されている全体を理解できないがゆえ、自分で見えている断片だけを取り上げて、そこだけから全体の評価を行おうとしたりする会話が多くなればなるほど、議論は無意味なほうに進む。

複数人の議論だけではなく、個人の思考においても、全体を見ずに、断片的に切り取った部分の集積だけで云々すると、訳のわからない妄想が生まれがちだ。もちろん、それをあえて文脈を外してスペキュラティブな問いを生み出そうとしているなどの意思があれば全然別の話なのであるが。



そんなことをロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』のこんな記述を読みながら思いだした。
文脈から切り離すことは、文脈を消滅させることと同じく、秩序正しい真実あれこれを壊すのに有効である。

これは、シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』を評した一節で、「トロイラスにとって、クレシダはその両方をなしたのである」と続く。

『トロイラスとクレシダ』はトロイ戦争末期を描いた劇で、トロイの王のトロイラスは自分の恋人だと信じていたクレシダが、敵であるギリシャの将軍ダイオミーディーズの元に走ったことで、恋愛の文脈においても、戦争の文脈においても、その事実を認めることができず「これはクレシダであり、クレシダではない」と口走ったあと、「女の忠節のかえらが、愛情の残飯が、大盤振舞いした誓言の、はんぱ物、屑、細切れ、脂っこいお余りが、ダイオミーディーズのものになったのだ」という台詞で切り刻んで断片化する様を指しての評である。
クレシダは恋愛と戦争の両方でトロイラスの信じていた文脈を外れて彼を混乱させたのであり、秩序正しい真実とは何かを完全に見失わせたのである。

対象をバラバラに切り刻んで、元の文脈から切り離してみることは既存の解釈をいったんなかったものにして、別の解釈を生み出すのには有効だ。つまり、それはリフレーミングによるアイデア出しの方法として認識した上で行うのであれば、意味もある。

トロイラスに起こったことはまさにリフレーミングである、もちろん、彼が望んだものではなかったのだけれど。
だから、彼は言ったのだ、「これはクレシダであり、クレシダではない」と。

「バラバラに切り刻みこまれた言説が意味が空っぽの器をつくる」の続き
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2017年11月29日

「いき」の構造/九鬼周造

訳あって九鬼周造の『「いき」の構造』を読み返した。

本というものは面白いもので、どんなタイミングで読むかによって印象が大きく変わる。
今回はひとつ前で紹介したジョルジュ・バタイユの『エロティシズムの歴史』『内的体験』、あるいは、シェイクスピアの『オセロー』『アントニーとクレオパトラ』などを読んだばかりだったこともあって、ヨーロッパと日本における恋愛観や性の問題の捉え方、あるいは、自然観(人工観)の違いについて考えることができたように思う。

P


この本のテーマは、江戸期に生まれた日本人の美意識である「いき(意気)」であり、著者はそれを日本独特の美意識として捉え、哲学的な分析を行っている。
結論からいえば、著者は「いき」をこう定義している。
運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である。

ようは男女の間(まあ、人によっては同性間のこともある)での「媚態」に関するひとつの姿勢に関する美意識が「いき」だというわけだ。つまり、エロティシズムに関するものといってよい。

これまた、結論からいえば、上の引用で「諦め」とあるように、このエロティシズムは結局、男女間の交わりという観点からいえば、すんでのところで目的を果たさずに足踏みをする。目的を果たすのは、むしろ、いきとは反対の野暮であるという美意識だ。
ひとつ前の「エロティシズムの歴史:呪われた部分 普遍経済論の試み 第2巻/ジョルジュ・バタイユ」で紹介したように、バタイユはエロティシズムを獣的な性行為の禁止がエロティシズムを誘発する条件であると考えたが、性行為そのものから距離を置く点では、九鬼が分析した日本における「いき」と、バタイユが分析した「エロティシズム」には共通点がある。

けれど、似たことろはあっても、やはり九鬼がいうように「いき」はエロティシズムとは異なる日本独特の美意識であるように思う。

「」の続き
ラベル:いき 諸行無常
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2017年11月19日

エロティシズムの歴史:呪われた部分 普遍経済論の試み 第2巻/ジョルジュ・バタイユ

以前に紹介した本、『形象の力』の冒頭、エルネスト・グラッシはこんな謎めいた言葉を綴っている。
人間であるぼくは火によって原生林の不気味さを破壊し、人間の場所を作り出すが、それは人間の実現した超越を享け合うゆえに、根源的に神聖な場所となる。これをぼくに許したのは、自然自身であり、ぼくは精神の、知の奇蹟の前に佇んでいるのだ。自然がぼくを欺瞞的に釈放し、ぼくは自然から身を遠ざけ、ぼくは想像もできない距離を闊歩し、歴史がぼくを介して自然を突っ切り始め、ふいにぼくは気がつくのである、目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいることか。
エルネスト・グラッシ『形象の力』

ここで綴られていることは、今回、紹介する『エロティシズムの歴史』でジョルジュ・バタイユが「人間とは、自然を否定する動物である」というのと同じだ。

エロティシズムの歴史


しかし、人間がどんなに自然を否定しようと、グラッシも気づいているように「目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいる」。
そして、人間が一度は切り捨て、闇に葬り去ったはずの、自然との紐帯が何度も人間のもとに闇のなかから回帰してくるからこそ、本書の主題であるエロティシズムも成立する。

エロティシズムとは一言でいえば、自然あるいは獣性と見えないほどの糸でつながっていることに気づいた人間の拒絶と欲望の入り混じった両義的な有り様だといえるだろう。
「エロティシズムの歴史:呪われた部分 普遍経済論の試み 第2巻/ジョルジュ・バタイユ」の続き
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征服され、欲望を感じて〈私〉は融解する

難解で重苦しく、絶望的な暗さを響かせもする言葉に最近は惹かれたりする。
あまりに明快で、わかりやすく、それゆえに何も告げていない言葉はむしろ不快すぎて目障りだ。



明るく明解で合理的すぎる思考に魅力を感じないのは普段から変わらないが、それにしても、ここ1ヶ月くらいは普段にも増して、ドロドロとした粘着性をもった腐敗したような思考の外に遺棄されたようなものに臭いに引き寄せられる傾向がある。

企図されたもの。明らかすぎる知識。
わかりやすさについては、元よりまったく魅力を感じないし、かねてから社会の毒だと思っている。
それは単に人を惑わし奴隷にする手枷足枷でしかない。そんなものを喜んで自ら引き受けようとする人たちの気が知れない。

「決断とは、最悪のものを前にして生ずるもの、超克するものの謂だ。それは勇気の核心だ。そしてそれは企ての反対物だ」とバタイユはいう。企てという明るすぎる道のみを安全に進もうとする意思。いったい、それのどこが面白いのか。一度も決断することなく、歩まずともすでにわかっている結末に向かって、なにも考えないまま進んでいく。心をドキドキさせる不安はそこにはただの1ミリもない。
バタイユは、そんな企てに、内的体験なるものを対置する。
「内的体験は行為の反対物であって、それ以上のものでもないのだ。「行為」は完全に企ての支配下にある」と。
私はどのようにしても逃げることはできず、限りない全面的衰弱のなかに投げ込まれ、私自身へと投げ捨てられ、いや、もっと悪い、私は空虚で、無関心であるだろう。だが内的体験は征服行為であり、そして、征服行為として、他者のためのものなのだ! この体験においては主体は錯乱し、客体のなかにおのれを滅ぼす。そして客体自体もまた消滅するのである。
ジョルジュ・バタイユ『内的体験』

逃げることのできない征服行為。征服行為である内的体験のなかで私は錯乱し、征服してくるドロドロとした腐敗的な得体の知れない他者のなかに崩れ、融解する。それが最初から決まったゴールに何の危険も犯さずに進む企てとは正反対なのは明らかだ。
けれど、この腐敗に征服され、自らを投げ捨てる勇気をもった内的体験への衰弱した意思こそが、実のところ、生きた心地を感じさせる唯一のもののような気がしている。

「征服され、欲望を感じて〈私〉は融解する」の続き
ラベル:バタイユ
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2017年11月04日

集団を動かすもの - システム、コンセプト、非知的なもの

人を動かすのにシステム以上に強力なもの、それは人が信じている概念(=コンセプト)であり、それを指し示す言葉なのだと思う。

だから、システムに沿って受動的に動いてもらうより、何らかの概念を理解してもらい、その概念の存在を信じて受け入れてもらったほうが人は主体的に動くようになる。その概念があまりに当たり前になって普段は意識することもないくらいに自然なものになれば、その概念に関連した行動はもはや自動的なものにすらなるだろう。



例えば、喫煙は他人の迷惑のかからない喫煙エリアで行うとか、性的指向は多様なのだから性的少数者の権利も認めるのは当然であるとか、それらはルールやシステムの問題である以上に、考え方、どのようなコンセプトをどう信じて行動する上での判断基準として用いているかという問題である。もちろん、人が信じる判断基準と現実のルールやシステムに乖離があれば、現行のルールやシステムを改編する必要があるが、その逆にルールやシステムの側から変えようとすると、一部の人には心理的な違和感が生じてしまうこともあるはずだ。

いくつか前の記事「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」で、シェイクスピアの戯曲『オセロー』の主人公が恋愛に対して初心すぎて恋愛については紋切り型の瑣末な知識しか持たなかったがゆえに、自分を憎む部下に欺かれて、愛する妻の浮気を疑い、怒りのあまり殺してしまうという痛ましい結末に至る際の、言葉=知識のもつ力の怖さについて触れていたが、それも同じことだ。浮気は裏切りであるという考えと、悪どい部下の吹きこむ偽りの言葉があまりに安易に結びついてしまい、ありもしない浮気を疑い、愛する妻の殺害へというどう考えても高いエネルギーを必要とする行動へと主人公の思考を動かしてしまう。

そういう観点からみれば、組織やコミュニティにおいても、単にルールやシステム、やり方などだけを共有しているものよりも、価値観だとか文化とかを共有しているもののほうが、組織や集団としての行動力は強くなるはずである。
強烈に価値観が共有できていれば、その組織やコミュニティがもつ力は強力なものになるだろう。
「集団を動かすもの - システム、コンセプト、非知的なもの」の続き
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2017年10月27日

知っていることより大事なこと。それは新しいことを知ることができるということ。

常々、思う。
たくさん知識をもっていることより、もっと大事なことがあるって。

もっと大事なこと。
それは新しい知識をどんどん手に入れ、自分でそれを扱えるようになる能力をもつことだ。



知らないことでも聞けば瞬く間に知っている状態に移っていける。
その力さえあれば、いま、どれだけ知識を持ってるかはそんなに関係ない。
だって、必要なときに必要なだけ一気に手に入れ、扱えるようになればいいのだから。

そう。その意味ではどんどん手に入れ、それを扱えるようになる力にはスピードがともなっている必要がある。

だったら、常日頃から知識を徐々に手入れておけばいいじゃないかって?
いつ何の知識が必要かもわからず、闇雲に知識をたくわえておくというのはあまり意味がある気がしない。

もちろん、興味がある知識を常日頃から手に入れるのはもちろん意味がある。
だって、興味があって知りたいのだから、その欲望を満たせばいい。

でも、いつ役に立つかわからない知識を勉強だからといって、詰め込むのは、義務教育の頃だけで十分ではないだろうか。
すくなくとも大人にそんな知識がいらない気がする。
そんないらない知識を学ぶ暇があったら、いますぐ必要な知識を得ることと、何より知識を必要なときに必要なだけ手に入れ、使えるようになるための土台となる理解術や思考法を身につけておいたほうがいい。
だって、いまの時代、必要な知識など、次々と変わるんだからストックしておくことなんて、ほとんど無意味だから。

「知っていることより大事なこと。それは新しいことを知ることができるということ。」の続き
ラベル:わかる 認識
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2017年10月23日

どこまで愛されているのかその限界を知りたいの

誇張するなら、限界を超えて、いまだないものを創造するほどに誇張するべきなのかもしれない。
クレオパトラ どこまで愛されているのかその限界を知りたいの。
アントニー それならば新しい天、新しい地を見つけなければなるまい。
シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』1幕1場14-17行

シーザーなきあとのローマ帝国、三頭政治をしく3人の執政官のひとりアントニーこと、マルクス・アントニウスと、エジプト・プトレマイオス朝の女王クレオパトラが、ともに恋に身を滅していく様を描いたシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』
その戯曲は、『シェイクスピアの生ける芸術』のロザリー・L・コリーに言わせると「身の程知らずの張喩」が目につく作品だという。



張喩、つまり、誇張表現。

それは先の引用でもみたとおりで、2人の間でも互いに交わされるし、2人を取り巻く人々も良い意味でも、悪い意味でも、2人のことを誇張した調子で表現する。

それゆえ、「アントニーは何をしても、「尺度を超えてしまう」かのように見える」し、クレオパトラを「我々は、彼女が礼儀に背いても、悪ふざけがすぎても、愚かな中年女でも、それでもなお魅力的であると感じさせられる」。
まこと、アントニーとクレオパトラは己れ自身について、また互いについて、誤った印象を抱いていたり創り出していたりしていたかもしれない。だが、彼らは何か別のこと、何かきわめて尊く、きわめて詩的なことを試みていたのである。等身大よりも大きいという己れの自身の確信と感覚を言葉にしようと試みること−するとそこには、ありきたりの人間が用いる表現様式よりもさらに広大な様式が求められる。

「誤った印象を抱いていたり」「創り出していたり」、つまり、ありもしないものをでっちあげているといえるのかもしれない。だが、しかし、それを一つ前の記事「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」でみた恋愛に初心なオセローがステレオタイプのありきたりの言葉に動かされ、彼の大事な恋を失う悲しみに落ちていく様を思い出すと、はるかに、このアントニーとクレオパトラは羨ましく感じられものではないだろうか。
二人はそんな並外れた幸福を得るために、「ありきたりの人間が用いる表現様式よりもさらに広大な様式」によって自らを語り、互いを語り、そして、まわりの人たちからもその誇張表現によって語られる。

誇張表現、それはある意味、ありきたりの日常という幻想を突き抜けて、真なるものに至るひとつの方法なのではないかと思えてくる。

「」の続き
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2017年10月22日

知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも

嗚呼、オセロー。何故、あなたはそんなに初心(うぶ)なのか?

シェイクスピアの『オセロー』で、主人公であるオセローは愛する妻を、悪人イアーゴーに吹き込まれた妻の姦通というデマを信じて、愛するが故に殺害してしまう。
その後、妻の姦通がまったくの嘘であったことに知って、みずからも自害するという悲劇なのだが、そもそも、主人公オセローに妻であるデズデモーナを愛を語らせ、姦通の疑いから激昂させ、そして殺人にまで至らせるのが、軍人であるオセローの恋愛に対する初心さであり、それゆえにソネットなどの恋愛詩、恋愛文学の定型そのままに行動させてしまうことだというから悲劇以外の何物でもない。



無知であること。にもかかわらず、誠実でいようとする場合、オセローのような定型=ステレオタイプの罠にはまってしまい、現実とのギャップに空回りをきたし、悲劇的な結末を誘ってしまうことは少なくない。

もちろん、それは恋愛の場合に限らない。

知識が少なければ少ないほど、自分の知識が少ないことに気付きながらそれを補う努力を怠る人ほど、ステレオタイプの型に自らの判断を預けてしまい、さも自分で考え行動しているつもりながら、ほとんどを型に委ねてしまう。そして、多くの型がそれそのものだけでは機能するようできてはいないので、結局、何事もうまくいかず、より面倒な状況に追いやられる。この流れから抜け出すためには、自ら知識をつけ、「知識を元に自ら考える」という編集行為にのりだす必要がある。だが、これをやらない人は多くて、それで不幸な状況から抜け出せずに不満を並べつづけるしかなくなってしまう。

無知であること、定型を迂闊にも信じきってしまうことはその意味で実はおそろしいことなのだが、多くの人はそれに気づかない。
まさに定型っぽい筋書きを書けば、こんな流れが生じる。
  • はじめてのことに動揺する
  • どうしていいかわからないから、型に自分を当てはめようとする
  • 型は必ずしも現実の問題にうまく機能しないから、そのギャップにますます自分を見失う
  • ギャップがあるゆえに周囲の反応は自分の思ったものとは異なり、それゆえに誠実に接してくれる周りのことが信じられなくなる
  • 周囲への不信が状況を必要以上に悪いものだという判断をこれまた定型に従って信じてしまい、悲劇へと進む選択をしはじめる
  • どんどん苦しくなって、何かの拍子にうまくそのループから抜け出せない場合、悲劇的な結果が待ち受ける

妻デズデモーナを前にしたオセローの心の動きもまさにこんな流れとして定型化できる。

「知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 20:14| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月21日

グーテンベルクの銀河系/マーシャル・マクルーハン

最近、ちょっと調子が悪い。いや、体調ではない。
頭のなかをすっきりさせておくことがむずかしいと感じるのだ。
「保守的なものへの対処法」。
それがここ最近ずっと頭を悩ませてる問題だと思う。
この週末直前、その悩みは結構マックスになってて苦しくなってきてストレスフルなので、何かにすがりつこうと思って、思いついたのがマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』

グーテンベルクの銀河系


有名な『メディア論』が書かれたのが1964年。その2年前の1962年に書かれたのが、この『グーテンベルクの銀河系』だが、僕は整理されすぎた『メディア論』より、タイトル通りの銀河のように様々なキラキラしたテキストがパッチワークされたこっちのほうが断然好き。

もう何年前に読んだかわからないくらい、読んでから時間が経ってると思って調べてみると、マクルーハン生誕100周年の2011年に読んだようだ。つまり6年くらい前に読んだ本について、いまさらながら、この本の書評を書くことで、保守的なものにいかに対処すればよいかを言葉にしたいと思って、あらためて手にとってみた。

そしたら、その序章のはじめにこんな一文を発見。
エリザベス朝のひとびとは、中世的な共同体的経験と近代的な個人主義との間で、からくも平衡をとりながら生活していた。他方、われわれ現代人は、個人主義が時代遅れのものとなり、共同体的相互依存こそ不可欠なものに思われる電気テクノロジーに遭遇しているのであり、われわれが対面している状況の型はエリザベス朝人のそれとはまさに逆の関係にある。
マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』

マクルーハンがこの本を書いた当時の50年以上前、時代は16世紀後半から17世紀初頭のエリザベス朝期の変化とまさに逆の方向への変化を遂げようとしていた。

エリザベス朝の時代というのは、いわゆるイギリス・ルネサンス期であって、フランシス・ベーコンやシェイクスピアが生きた時代である。いまだ1660年に設立される数学者・科学者たちの集団である王立協会=ロイヤル・ソサエティーは生まれていないが、そうした自然科学の隆盛がはじまる前夜ではあった。その意味で、近代的な個人主義に向かう流れは残りつつも、いまだ中世的な共同体的経験は街で生きる人々の生活には色濃く残っていたわけで、そのあたりの中世と近代が混淆する様を描いたのがシェイクスピアだったといえる(「シェイクスピア・カーニヴァル/ヤン・コット」参照)。

その逆の変化が生じ始めていたのがマクルーハンが生きた1960年代というわけだ。個人主義からふたたび共同体的経験へとシフトしていく流れのなかに、インターネットの誕生から創出という時代の流れはある。
けれど、当時、こうした明らかな時代の変化を受け入れた人もいれば、保守的に変化を拒んで個人主義にすがりつく人もいただろう。

そんな人への強烈なパンチとして放たれたこの本は、しかし、実は保守的であることも進歩的であることも、相対的であり、むしろ、ふたつの状態をパラレルに思考することの必要性を示したものだったと思う。
そんな一冊として認識している『グーテンベルクの銀河系』だからこそ、いまあらためて、この本の書評に取り掛かってみようと思ったのだ。

「」の続き
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2017年10月18日

変化には2種類ある、だから、区別して対処したい

変化には2種類ある。
変化というか、動きといったほうがいいのかもしれない。



1つは、モノや人があちらからこちらに移動したりすることによる変化である。
トランスフォーマーの変形のようなものも同じだ。場所の移動により形態は変化しても、実はそれぞれの要素は何も変わっていないから、理論的には元の状態に戻すこともできる。
その意味では、建物を建てたり、服を作ったりというのも、この種の変化といってよいのかもしれない。部品を加工しちゃうから完全には元に戻せないということはあったとしても、これは可逆的な変化といってよい。

そして、もう1つの変化は、メタオルフォーゼ的な変化。変態だ。
サナギが蝶になったり、子供が大人になったり、蕾ができ花が咲き実になるような変化。これは不可逆的な変化で、元に戻すことはできない。
だから、イノベーションとかもこっちに入るんだと思う。逆に、新しい商品とかが出たとしても、それがイノベーティブなものでなかったとしたら、さっきのほうの可逆的な変化だ。

この2つの動きというか、変化はちゃんと区別をつけて理解したほうがいいと思った。

何度か読もうと思って手に取り、そのたびに挫折してきたフランシス・ベーコンの『ノヴム・オルガヌム(新機関)』を、いまようやく読み進めながら、そう思ったのだ。

「変化には2種類ある、だから、区別して対処したい」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 20:57| イノベーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月10日

青い花/ノヴァーリス

世界は夢。夢は世界。
世界は夢となり、夢はまた世界と変じ、
とうに起こったはずのものが、
今かなたからやってくる。
想像がはじめて自在にはばたき、
思うがままに糸を織り、
ここかしこヴェールをかけ帳を掲げ、
やがで魔法のもやに消えうせる。
ノヴァーリス『青い花』

18世紀末ドイツの初期ロマン主義の詩人ノヴァーリスによる未完の小説『青い花』
先に読んだ『サイスの弟子たち』がとても気にいって、ノヴァーリスのことに夢中になり、この『青い花』を手に取ったのはおとといのこと。
ひさしぶりに本を読んで、気持ちが落ち着かない状態にさせられたのだが、そういう意味でとても魅力に満ちた一冊だ。未完なのが、なんとも惜しいが、未完でもなお読む価値がある。

『青い花』は、原題を『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』といい、主人公の名をそのままタイトルにした作品だが、引用した作品中の詩の一節同様に、どこまでが主人公が生きる現実なのか、どこからが他の登場人物が語る物語のなか、あるいは、夢の世界の話なのかが読んでいてわからなくなる作品だ。



しかし、この夢を詩と置き換えて、「世界は詩となり、詩はまた世界と変じ」と読み替えると、この作品における詩というもの、あるいは詩人というものの役割、ノヴァーリスが詩や詩人というものをどう見ているかが感じとれるようになる。
詩人が自分で奇跡におどろいているようでは、とても奇跡を行なうことはできない。
ノヴァーリス『青い花』

と語るのは、ハインリヒが母に連れられて辿り着いた母の故郷であるアウクスブルクで出会った詩の師となるクリングゾールで、ここではあらかじめ「詩人は奇跡を行う者」ということが前提とされている。

なるほど、この作品(小説?)の中では、詩人がうたった詩の内容がそのまま現実になるシーンが何度となく描かれる。
例えば、旅の道連れの商人が語るアトランティスの物語では、王女との結婚の許しを請う若者のうたがその後の父王の許しに即座につながるように。

「青い花/ノヴァーリス」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:37| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月08日

分かっていることを新たに分かり直す

デザインリサーチ。デザイン思考などのアプローチで用いられる、フィールドワークやデプスインタビュー、デスクトップリサーチなどの様々な調査方法を組み合わせて、デザインの課題を定義するために用いる思考の方法。

そのデザインリサーチをしていると往々にして起こる問題がある。
それはリサーチに関わっていない外部から、リサーチの結果をみて「それはリサーチをしなくてもわかった普通のことでないか」という反応があがるということである。



問題の要因は2つあると思う。
  1. デザインリサーチをしたことがない人には、デザインリサーチによって何が変わったかがそもそもわかりにくい
  2. デザインリサーチをした側が、そうした前提に立って、やってない人に自分たちが得たものを伝える努力を怠ってしまう(もしくは、その前提自体の認識がない)

「大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ」
量子力学の研究で知られる理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーの言葉だ。

デザインリサーチがリサーチを行う際の立場もこれと似ている。
デザインリサーチの対象となるのは「誰もが見ている」日常的なものであることが多い。それをわざわざリサーチの対象にしようというのだから、「まだ誰も見ていないものを見る」の目的であるはずがなく、「誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考える」ことのほうが目的になるのは当然である。

「分かっていることを新たに分かり直す」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 14:45| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月07日

わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ

ちょっとびっくりしている。
びっくりして戸惑っている。
実際には何も変わっていなくても、見方が違うだけで現実がこんなに違って見えるということに。



「わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ」

ノヴァーリスの未完の小説『青い花』で、主人公の青年ハインリヒにせがまれて父親が母親と結婚しようと決断するにいたった夢の話をする中で、夢の中で出会った老人の語る話を聞いて、父親が感じたことを述べたセリフだが、まさに、今日僕自身が感じたこともこれに近い感じのものだ。

きっかけは、最近、会社での役割が変わったことだ。変わったとはいえ、正直、今日まではあまり実感を感じていなかった気がする。
それでも、役割が変われば、やることもすこしずつは変化していくもので、そうした変化をあらためて、今日は休みだということもあり、もろもろの作業をしつつ、頭のなかの整理をしはじめたら「まるで新しい世界に上陸するような気が」するくらい、まだ何も変わっていない状況がまるで違って見えはじめたことにびっくりし、戸惑ったわけだ。

「わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 19:45| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする